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アーカイブ:「すみっこCRASH☆」トーク(松田修 × 蔵屋美香)

トークイベントのアーカイブを公開いたしました。
参加できなかった方も、ぜひご覧ください。

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すみっこCRASH☆ アーティスト・トーク
松田修(アーティスト)× 蔵屋美香(本展キュレーター / 横浜美術館館長)

日時:2022年4月2日(土)12:30-13:30
会場:無人島プロダクション

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蔵屋美香:それではトークを始めます。まずは松田さんから、出品作である《奴隷の椅子》(2020)を制作するに至った経緯についてお話いただけますか。

松田修:そうですね。そもそも、最初から僕の作品は、生まれ育った環境が作った自分の「美意識」みたいなものをアートに持ち込む、ということをしていたのだと思います。もっとも、それが言葉にできるようになったのは最近のことです。
スラム出身のアーティストというのは、あ、「スラム」という言葉を使うようになったのもここ3年ほどのことですが、なかなかいません。グラフィティのアーティストはいても、コンセプチュアルな、何かを考えることから作品を作る作家はおらず、そういうものを作りたいと考えてきました。なぜなら、美術史に「スラムにあるような美意識」が残らないということは、まるで自分がいなかったような気すらしてしまうからです。
それこそうちのおかん(母親)のように尼崎からほとんど出たことのない人をずっと取り上げたいと思っていたんですが、なかなかきっかけがつかめずにいました。そういう意味では、新型コロナウィルスの蔓延が、作品制作のトリガーになってくれたとも言えます。
尼崎は近年ジェントリフィケーションが進んでいます。阪神淡路大震災のとき液状化による地盤沈下がひどかったのに、いまではタワーマンションが建っていたりする。どんどんスラムの部分がなくなっているところで、コロナ禍に突入しました。近隣住民からのクレームや、市と警察からの営業中止要請をきっかけとして、売春街も店を閉めざるをえなくなった。その後、70年続いた売春街は消滅。これはいま作らねば、という使命感みたいなものを感じました。

蔵屋:さっそく話を始めてみましたが、もしかして、東京の人は尼崎と言ってもぴんと来ないかも知れませんね。松田さんの作品をきちんと理解するために、まずは松田さんが生まれ育った尼崎という街についてお聞きしておいた方がよさそうです。

松田:そうですね。尼崎は兵庫県にあります。大阪に近く、神戸にも出やすい立地です。出身で有名なのは、お笑い芸人のダウンタウンです。
この街を、僕はふざけて「大人のディズニーランド」と呼んでいます。競馬場、競艇場、そしてパチンコ屋がほんとうに腐るほどあります。ギャンブル、飲み屋、風俗、そういうものがすべてあるところです。その中に「かんなみ新地」という売春街があって、その近所に僕の実家があります。
まわりはわりと高級住宅街も多くて、有名なのは芦屋でしょうか。そこでは条例があって、パチンコ屋ひとつ作ってはいけなかったりする。だから「そういうもの」を求めて、人は尼崎に来る。そんな事情から、僕は尼崎を「まわりの恥部を引き受けたやさしい街」とも呼んでいます。まあ「歓楽街オブ歓楽街」というか、まさに「ダウンタウン」ですね。
あとは工場地帯。うちの死んだおじい(祖父)は、自虐的に「水害、公害、人害がある街」なんて言っていました。「人害」っていうのは治安の悪さのことで、むかしは特に「行ったらあかん場所」として有名でした。あ、水害公害はともかく、いまも治安はよくはないです。

蔵屋:阪神間というところはわかりやすくて、北の山から南の海に向かって、阪急、JR、阪神と3本の電車が走っています。阪急は富裕層が使うイメージで、JRは勤め人、阪神はおっちゃんらが乗る路線という感じですよね。

松田:まあ要するに南に下るほど工場地帯が近くなって、むかしは公害もひどかった。僕らの地域の人たちは尼崎のことを、親愛の情と自虐の念をこめて「アマ」と言ったりしますが、阪急沿線の住民には、一緒にされたくないのか、わざわざ「ムコノソウ」「ツカグチ」を自称する人もいます。

蔵屋:その「アマ」がいまのような街になったのは、たしか戦後のことですね。

松田:もとは湿地帯で人が住めるところではなかったと聞いています。でも先ほど言ったように大阪にも神戸にも出やすい場所なので、何とか使えないかということで、埋立地に工場を作ったり、競艇場を作ったり。労働者が住むようになって、闇市に始まるいろんな店ができて、という流れですね。まあ詳しい街の歴史のことは、僕は東京へ出てだいぶ経った後に、調べて知ったのですが。

蔵屋:日本における売春街の歴史もちょっとおさらいしておきましょう。まず、戦後の1946(昭和21)年に、戦前まであった公娼制度を廃止すべく、GHQが「日本における公娼の廃止」という覚書を出します。これを受けて、同年、内務省が「公娼制度廃止に関する件」という通牒を発します。しかし、これは公娼ではない「私娼」の存続は認めるものでした。12年後の1958(昭和33)年に「売春防止法」が施行され、ようやく日本の買売春は法的に禁止されることになりました。この12年の間に「特殊飲食店」という名目で買売春を行っていたのが、いわゆる「赤線」です。松田さんのご実家の近くにあるかんなみ新地は、これとは異なり、非公認で売春を行う「青線」に分類される場所で、つい最近まで営業が続けられてきたんですね。

松田:そうですね。
ひと通り整理が終わったところで、作品に話を戻すと、まず、おかんのインタビューを撮影しました。でも、それをそのまま使うとあまりに個人の話になってしまって、ある種の感動はあるかもしれないけれど、こうした状況を生む構造を意識させる話にはならないと感じました。そこで、内容はほぼインタビューのままとしながら、この女性を、もっと不特定多数の、世界の同じような状況や構造の中に置かれた存在にしたいと考えました。最終的に、写真を使ってセリフは僕がアテレコをする、といういまのかたちになりました。
最初に出てくるのは、僕が2歳のときですから、19歳で僕を生んだおかんが20歳ぐらいのころの写真です。映像の中盤に死んだおばあ(祖母)の写真、後半には現在のおかんの写真も出てきます。
写真を動かすために、複数のソフトやアプリを組み合わせ、2Dの写真を3Dにしました。このために勉強して。3Dのかたちに沿って写真に点を打って。あとは、こう動かしたら笑顔になるとか、しかめ面になるとか、パターンを設定して、そのくり返しですね。
[作品を見ながら]あ、いまちょうど、いちばん苦しいときに家族でハムを切って分けて食べた、というセリフが出てきましたね。
忘れないうちに言うと、これはもともと僕のネタだったんです。学校で、「うち今日ハムしか食べてへんねん」とか「うちなんてあめ玉ひとつやで」みたいな友だちとの貧乏自慢があって。それをおかんがどこかで耳にして、「あんた外でハムしか食べてへんて言ったやろ」と。だからインタビューの中で、おかんはいわば笑いのネタとして僕にこの話を持ち出しているわけです。
しかし同時に、おかんは僕らに対して申し訳なく思っているところもあって、東京にきたときとか、僕が結婚したときとか、そんなときはいまでも必ずハムを差し入れてくれる。
「東京にもハムは売ってんねん!」って僕がつっこむまでが定番ですね。
別のところで、女の子が欲しかった。名前も「朝子」と決めていた。でも男ばかりが3人生まれた。「みっつそろったらなんかもらえるんとちゃんうかい」と三男のタマを洗いながら思った。という話が出てきますが、これもハム同様、おかんの定番のネタです。小さいころから僕ら兄弟全員が何度も聞かされてきたネタですが、いまにして思えば、夜の生活が中心だったおかんが、子どもに「朝子」って名付けたかったっていうのは、深い話なのかもしれないですね。

蔵屋:いま流れている「長男が東京で詐欺まがいのことをしている。お母さんは恥ずかしいです」というセリフも、なかなかすごいですね。

松田:10年くらい前ですかね、おかんが東京へ来たとき、僕はお世話になっている無人島プロダクションにあいさつしてくれ、と頼みました。そしたらこわい、と断られたんです。そこで、無人島のことを詐欺会社だと勘違いしているらしいことがわかりました。おかんは僕が、いちばん危ない「出し子」をしていると思い込んでいて、せめて顔を出さない社員にしてもらえ、詐欺をやめろとは言わないから、危なくないようにやれ、と言うんです。無人島には社員の話は断られましたが(笑)。
ただ、おかんは鋭いと思います。たとえばあやしげな壺をあの手この手で売りつけるのと、これはこれこれこういう作品で、と説明して売るのとは、よく似たことだと思います。
だから、いまおかんには、僕はよい詐欺をしている、と伝えています。

蔵屋:金本位制というものがあります。金はそのもの自体に価値がある。その価値は何グラムでこれぐらい、と決まっているから、それを基準にして貨幣経済を成り立たせる制度です。ところが兌換紙幣というのは、単なる紙っぺらで、もの自体に価値はありません。ただ、社会が「この紙にはこれぐらいの価値があるよ」と約束してくれているだけです。
アートにもこれと似たようなところがありますよね。それそのものの価値が金のように決まっているわけではない。しかし社会が「価値がある」と見なせば、そこにそれだけの価値が生じる。このしくみを扱ったのが、赤瀬川原平さんの「千円札」のシリーズだと思います。
お母さんは、要は赤瀬川さんと同じ視点からアートのしくみに疑義を呈しているわけで、アートにとって本質的なことをずばり言い当てていると思います。
しかし、このエピソードひとつとっても、松田さんが育った環境とアートは相当に遠いものだということがわかります。だからこそ、最初に述べられたように、尼崎の暮らしの中で育んできたご自分の「美意識」と、アートの世界とのズレを表す作品を作ってこられたのだと思います。
松田さんは、そもそもどうやってアートに出会い、アーティストになったのでしょうか。

松田:僕は高校を留年というかダブったりしているのですが、先に卒業して上京していた友人のところ、当時は5人くらいで住んでいたところへ、まず転がり込みました。人生で一度は東京に住んでみたかったというのがその理由です。
しばらくそんな友人たちと共同生活を送っていたら、その中にひとり、夢を持つやつが出てきたんです。そこから、お前の夢は何だ、夢を持ってないやつはだめなやつだ、となり、僕は追い込まれてつい「映画監督になりたい」と言いました。
あとは友だちが頼んでもないのにパンフレットなどを持ってきてくれて、3日後ぐらいにはもう美術予備校に行きました。映画監督になりたいと相談しているのに、受付の人は、君は画家に向いている、と言う。絵なんて描いたこともなかったのに、体験授業を受けると、講師の人がまた「いい線描くね」とほめてくれる。で、調子にのって予備校に入る。僕は流されやすいので、入ってしばらく経ったらもう「画家になりたい」と言っていました(笑)。まあ予備校の人がうまくのせてくれたんですね。
予備校に入る前には、貧乏なんですが行ける学校はありますか、と講師に聞きました。すると、国立で東京藝術大学というのがある、授業料は年間30万ぐらいだよ、と言われました。それなら働けばなんとかなる、と思いました。僕は高校も働きながら自費で通ったので。まあそれも、《奴隷の椅子》冒頭のおかんのセリフではないですが、僕の地域ではめずらしいことではありませんでした。
そこから大学に入るまでには長く時間もかかりましたが、がんばれたのは、自分が好きなサブカルチャーとして受容していたものが、実はアートにつながっていたんだと気づいて、おもしろくなったということもあります。たとえばデヴィッド・リンチ監督の映画や、CDジャケットから知ったマイク・ケリーの作品など。日本人では、絵を雑誌で見て衝撃を受けた、会田誠さんですね。
しかし、夢があると言い出した友だち、予備校の受付のひと、体験授業の講師のひと、彼らがいなければ僕はアートに出会うことはありませんでした。アートを始めたいと思うこともなく、思っても始め方がわかりませんでした。

蔵屋:インドの経済学者、哲学者で、アマルティア・センというひとの「ケイパビリティ」という概念があります。不平等の解消についての理論です。
たとえば、平等な世の中にしようといったときに、ではすべてのひとに同じぐらいの財産があればいいのかというと、そうではない。なぜならひとが求めるものは多様で、お金だけではないからです。
また、楽しく生きているかどうか、みたいな満足度で平等を測るのも十分ではない。なぜなら、過酷な状況に置かれている人であっても、無駄な夢を見ずにあきらめたり、そこで生きていくなりの楽しみを見出したりして、精神の平穏を保っている可能性があるからです。
ではなにを平等の指標とすればよいのかというと、そのひとが持っている自由の幅なんだ、とセンは言うのです。
その自由は何によって獲得できるのか。センの言葉でいうと、それは「機能」をたくさん持つことによってです。わかりにくい用語ですが、要は、誰もが可能な限りたくさんの選択肢を持つことによって、ということかと思います。
あたたかい場所で眠れるとか、必要な栄養が取れるとかいった基本的な生存の条件についてのものから、宇宙飛行士になりたい、ピアニストになりたい、といった将来の夢についてのものまで、こうありたい、これをやりたい、やりたければ手段が得られる、このような状態にみんながいるかどうかを測ることが平等の指標になる、とセンは考えるのです。
いま松田さんは、きっかけがなければアートを始めたいと思うことも、始める方法を知ることもなかっただろう、と言いました。お母さんも作品の中で、高校を卒業してホステスとして働き始めた、まわりがみなそうだったので専門学校や大学への進学は考えたこともなかった、と言っています。また、客室乗務員になってみたかった、なり方もわからなかったけれど、とも言いますね。そこから、自分の人生に後悔はないが、自分で選んだ人生ではなかった、と、非常に重いお母さんの言葉が出てきます。これは、お母さんが持っていた選択肢が充分ではなかった、ということを意味しているのだと思います。

松田:常に作品で扱うわけではないですが、貧困は、いちばんなくなってほしいと思っているものです。同時に、世の中がほんとうに貧困をなくしたいと思っているのか、ずっと疑問に思って来ました。僕が持っている、一生消えない怒りみたいなものは、そこから来ていると思います。つまり、こんなにおかしいことが起きているのに、みんなおかしいと思っていないじゃないか、「持たざるひと」ではない「持っているひと」はそれで幸せだから、このままでいいと思っているんじゃないか、ということです。僕は、言葉にはできないものの、10歳ぐらいからもう、貧困から来る生き方の制限みたいなものをおかしいと思っていたのに。

蔵屋:松田さんは、わずか10歳で、どうしておかしいと気づくことができたんでしょうか。つまり、お母さんが言うように、「まわりがみなそうだったので疑問を持ちませんでした」というのが通常の状態だとしたら、怒りというものは、自分と他人とがちがうぞ、と知るきっかけを得なければ生まれてこないものだと思います。

松田:そういう意味では、尼崎って、最初に述べたとおり、周囲が高級住宅地なんですよ。だから自転車に乗れるようになれば、自分の住む地域がいかに特殊かということに気づきます。見るだけでなく、色んな外からの言葉や態度にも遭遇しますし。そんな風にして出来た怒りは、ダウンタウンにも感じます。同時に、世の中に対する「あきらめ」のようなものも感じますね。僕にも両方ある。
なぜこんなに違うんだろう。生まれたときから豪邸に住んでいるひとと、ウサギ小屋みたいな家に住んでいるひとと、何がちがうんだろう。うちのおかんは尼崎にはめずらしい働き者です。それなのに、懸命に働いてもこの差が埋まらないのはなぜなんだろう。何がそうさせているんだろう。漠然と、そんなことは考えていたと思います。

蔵屋:なるほど。自転車が、他の選択肢を持つひとびとの存在を教えてくれたんですね。

松田:選択肢を持つひとびとを知ったところで、自分がその選択肢を持てるとはまったく思いませんでした。まあそれこそ、あきらめていたんですね。それに、怒りやあきらめを抱えていても、楽しく生きるのに、「僕ら」は長けていましたから。しかしのちになって、僕は思いがけない偶然からアートを知り、この構造からいわば「うっかり脱出」をしたわけです。
一方で不思議なもので、郷愁みたいなものもある。いつか戻ろうと思っていましたし。そういうことも含めて、構造的なものにのまれる/のまれない、ということを考えます。
また、その構造に10代ぐらいで気づいておかないと、実際に脱出するのはむずかしいとも感じます。おかしいなと思いながら、尼崎の倫理や論理を受け入れて、ずっとそこで生きていく。尼崎では悪いことをするひとも多く、ルールの設定がちがうんです。自分の人生を変えるために悪事すらいとわないひとを、僕はたくさん知っていますし、驚きません。

蔵屋:この展覧会全体に共通するテーマなんですが、想像力という問題が重要なのではないかと感じました。つまり、自分の住む場所はおかしい、他の選択肢がある、と気づくための想像力を持たされているかどうか、ということです。

松田:僕が貧困の構造から抜け出したのは、先ほども言ったように「うっかり」がきっかけです。僕はいま、そんなにお金持ちではないし、収入的には相対的貧困の枠に入るのかもしれません。しかし、アーティストという選択肢を得て、東京に地盤を作ろうと思い、尼崎に帰ろうと考えなくなったころから、尼崎の構造から脱出したんだと思います。

蔵屋:松田さんが先ほど言われた、みんな貧困をなくそうと本気で思っていないじゃないか、という問題に戻ります。わたしにはそれは、思っていないというより、知らないので思うこともできない、という事態のように思えます。想像力の問題として言えば、まったく知らないものは想像もできないわけです。
たとえば、松田さんのお母さんにアートが想像できなかったように、松田さんや尼崎の姿が見えていないひとには、貧困について想像することもできないのではないでしょうか。

松田:貧困を生む構造に対する怒りは一生消えないけれど、近年、直接的に怒ったりするのではなく、うまく呪う方法はないかと考えています。実際に貧困と関わらなくても、そのことを見るひとに考えさせる。これを僕は「呪い」と呼んでいます。呪いらしい呪いにすると、見るひとはいやがりますが、一見やさしそうなもので呪いをかけることはできる。その意味で、《奴隷の椅子》はとてもうまく行ったと思います。ぜんぜん知らない人生を体験して、その先ずっと考えてしまうしくみをつくることができました。

蔵屋:最初の方で松田さんは、《奴隷の椅子》の映像を、お母さん個人ではなく、世界中にある貧困という構造の中にいるひとたちの姿にしたいとおっしゃいました。たとえば、松田さんとお母さんはふだん関西弁を使われると思いますが、映像の中のセリフは、標準語に寄せた関西弁、というような、どこの地域とも特定できないあいまいな言葉で語られますね。

松田:そうですね。映像の中では、この人物がほんとうにいるのかいないのかわからない、それぐらいの抽象度でいいのではないかと思いました。
その代わりに、この椅子がほんものなんです。

蔵屋:おっしゃるとおり、この作品の肝は、抽象度の高い映像と、実物の椅子がセットになっているところですね。実際にこの椅子に座って作品を見ていると、お尻から生々しくリアルさが伝わってきます。

松田:この椅子は、おかんが営んでいた「スナック太平洋」で実際に使われていたものです。店は僕が中学生ぐらいのときに始めたものなので、もう30年近くが経っています。ほんとうはもう1脚、常連さんにあげてしまった同じ椅子があって、その3脚で1卓をつくり、加えてカウンターが3席という、とても小さな店でした。子どものころは、椅子の整理整頓が僕ら兄弟の仕事でした。
コロナ禍で店を閉めるということになって、「あ、『太平洋の椅子』を使おう」と思ったとき、この椅子が世界中にあるような気がしました。

蔵屋:椅子がリアルなので、そこを錨にして、映像の抽象度をどんどんあげていけるわけですね。

松田:写真ではなく棒人間を使ってもいいかな、と考えたぐらいです。代わりにこの椅子があることで、いい作品になると確信しました。椅子としてもおもしろい運命をたどっていると思うんですよ。1脚は常連さんにもらわれて尼崎に残り続け、あとのふたつは作品となってここにある。こういうことは、アートでないと起こせないと思います。

蔵屋:松田さんはよく「アマの椅子もびっくりしていると思います」と冗談で言いますね。

松田:最近は僕の家族も、ここに何かマジックがあるらしいということに気づいています。むかし僕らが整頓した椅子が、いま美術品となっていることを、なにか「オモロいこと」くらいには思っているようです。

蔵屋:松田さんの話をうかがっていると、松田さんがほんとうにアートを信じていると感じます。
わたしなどは長く業界にいすぎて、貧困にアート?そんなこと言うヒマがあったら住まいと食事を保障したほうがいい、などと、無力感からひねくれてしまうときがあります。しかしアートの役割を、構造の外を見せる、想像させる、と捉えることができれば、自分の仕事にも意味があると自信が持てます。

松田:そう言われると恥ずかしいですが、僕はアートに救われました。アートで人生が変わったと思っています。
よく、むかしから絵がうまかったんでしょう、とか、松田さんだからできたんでしょう、と言われます。しかしそうではないんです。
逆に、アート関係者がアートのちからを信じない、というような発言をしているのを聞くと、ほんとうにびっくりします。

蔵屋:そうですね。わたしも含め、アート関係者は、アートがあしたあたたかいご飯を食べる役に立つのか、と考えすぎてしまいます。そうではなく、アートができるのは、別の可能性を見せることなんですね。
この椅子自体は、古道具屋さんに売ったらわずかな価値にしかならないでしょう。でも、見る者に別の可能性を見せてくれるから、この椅子は、中古の家具という価値を超えて、別の価値体系の中に入って行っているんですよね。

松田:ドイツ出身の思想家、ハンナ・アーレントに「パーリア(pariah)」という概念があります。のけ者、追放された者、棄民という意味です。もちろんアーレントが論じているのはユダヤ人のことなんですが、これは「僕ら」のことだな、と思いました。一般の社会の価値観によってキュレーションされた、たとえば現在のテレビなどには、尼崎の新地も、それにまつわる人たちも出てこない。僕らの姿は見えない。だからこそ僕がやらなければ、という使命感があります。
若い人に、「いまの日本に売春街ってあるんですか」なんて言われたりすると、「知らないことを知らない」という状態をつくってはいけないと感じます。ふつうの会話には売春街の話なんてまず出てこないでしょう。でも《奴隷の椅子》などを見て「知らなかったです」と言ってもらえれば、会話になるじゃないですか。それが先ほど言った「やさしい呪い」なんです。
あと、批評家の黒嵜想[くろさき・そう]さんと金沢でトークをしたときに、「スラムからの福祉」という言葉をもらいました。福祉がトップダウンでなされるのではなく、弱者と思われているひとたちからちからを与える。そういうことができるのなら、それはスラムからの福祉ですね、と言われたんです。最近それをすごく意識しますね。

蔵屋:わたしはこの《奴隷の椅子》は名作だと思っています。選択肢の問題をこれほどはっきり教えてくれる作品は他にはありません。また、この作品を見ることで、これまで松田さんがつくってきた、過激な笑いを見せる作品が何をしようとしていたのか、少しですが理解できるような気がします。ひどいことがあって、笑わなければおかしくなる。そんな状況で育って「美意識」を育み、しかしそれは通常アートに関わるひとたちとはだいぶズレている。そのズレをずっと見せようとしていたんだな、と。

松田:そうですね。20代のときは特に呪い方が下手というか、「呪っとんじゃい、見んかい、何お高くとまっとんじゃい」とか、最初に話した、条例できれいにする街と恥部を引き受けた街、芦屋と尼崎のような関係から、「なにを隠そうとしとんじゃい、おれはそこで生まれとんじゃい」……みたいな怒りがダイレクトに表れていました。東京でも、似たような関係を見つけるたびに怒りを増して(笑)。でも、それはそれでやってよかったと思います。一度やったから、ああ、これはいくらやっても呪えないな、ということもわかり、やり方を変えようといろいろ考えるようになりました。
《奴隷の椅子》でほんとうにひと段落という気がします。今後、通底する美意識は、もうセットされたものだから通底し続けると思いますが、スラムということを説明し続けるだけではないことができる気がします。

蔵屋:いまさらですが、松田さんがこのトークの中でずっと使っている「美意識」という言葉は、フランスの社会学者、ピエール・ブルデューが言う「ハビトゥス」のようなものなのかな、とあらためて思いました。生まれ育った環境で身につけた、無意識の行動パターンとか、身体にしみついた社会的な性向のことです。

松田:そうですね。でも、ほんとうはそれはみんなバラバラのはずです。それをバラバラのまま、どうていねいに伝えられるか。とてもむずかしい問題ですが、関心があります。
そのために、ひとりで制作するだけでなく、コラボレーションというか、あきらかに属性や美意識の違う他者とのインスタントなコレクティブなど、いろいろたくらみ中です。

蔵屋:これでほぼ1時間ですね。松田さん、どうもありがとうございました。

文責:蔵屋美香/松田修

 松田修(まつだ・おさむ)
 https://www.mujin-to.com/artist/matsuda/
松田修は映像や立体、ドローイングなどさまざまなメディアを用いた表現で、社会に潜む問題や現象、風俗をモチーフにして「生」や「死」といった普遍的なテーマに取り組んでいる。ときには、ひきこもりやニートといった、世間から否定的な眼差しを向けられる存在や、ゲームの中での戦いや死など、繰り返し再生されるヴァーチャルな世界での生命観なども松田の作品の重要なテーマとなっている。