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アーカイブ:「すみっこCRASH☆」トーク(青山真也 × 蔵屋美香)

トークイベントのアーカイブを公開いたしました。
参加できなかった方も、ぜひご覧ください。

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上映会:青山真也監督作品「東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート」アフタートーク
青山真也(映画監督)× 蔵屋美香(本展キュレーター / 横浜美術館館長)

日時:2022年3月13日(日)18:00-19:00
会場:無人島プロダクション

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蔵屋美香:ではトークを始めます。いまみなさまにご覧いただいた映画《東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート》(2021年)は、これからお話していきますが、いろいろな理由から作中にほとんど説明がありません。ですので、このトークでは、都営霞ヶ丘アパートという場所について、また撮影の実際についてなど、監督の青山真也さんにどんどんうかがっていきたいと思います。

青山真也:よろしくお願いします。おっしゃるとおり、この映画にはほんとうに説明がありません。テロップも最低限で、鑑賞者はただひたすら高齢の方たちの生活を見せられることになります。
まず、ここがどういう場所なのかご説明しますね。
このアパートがあったのは、JR総武線の千駄ヶ谷駅付近、原宿や青山にも近い、東京の一等地でした。建築家、隈研吾さんによって建て替えが行われた国立競技場のすぐそばで、一帯には他に神宮球場や秩父宮ラグビー場もあり、スポーツの聖地といわれています。
第二次世界大戦末期の1945年の空襲により、このあたりは焼け野原となりました。戦後、この焼け野原に木造長屋の「霞岳(かすみがおか)都営住宅」がつくられました。戦災で家を失った人や大陸からの引き揚げ者のための住まいが急ぎ必要だったんです。
これが1964年の東京オリンピックのときに取り壊され、代わりに建てられたのが映画の舞台となった「都営霞ヶ丘アパート」でした。最後はボロボロでしたが、竣工当時としては、水洗トイレもあるハイカラな住宅でした。10棟に300世帯が住める設計でした。
現在の公営住宅は、たとえば何歳以上とか、収入がいくら以下とか、年齢や所得によって入居の条件が定められていて、人も入れ替わります。しかしここは他とは異なり、64年の竣工当時から住んでいる人、あるいは建て替え前の霞岳都営住宅から移ってきた人などが多くいました。冒頭に出てくる90歳になる白髪の女性も、若い頃からこのアパートに住み、子育てをし、その子どもが巣立って、旦那さんを亡くして、ひとり暮らしでした。こういう方がとても多いところでした。
そんなアパートに、2012年7月、東京都より突如、ラグビーワールドカップ開催のために国立競技場を建て替える、周辺もあわせて整備するから立ち退いてくれ、という通告が来ます。会場に実物を展示していますが、この通告は、日付もないA4用紙1枚の、ほんとうに簡単なものでした。いたずらを疑った住民もいたぐらいでした。
私がこのアパートを知ったのは2013年でしたが、そのころに住んでいた若い世帯は早々に引っ越し、高齢者ばかりが残っていました。

蔵屋:さかのぼって、そもそも青山さんがこのアパートに行きついた経緯を教えていただけますか。

青山:東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まったのは、2013年9月のことでしたね。2012年のロンドン大会でもジェントリフィケーションが問題となったので、今回の東京大会でもひどいことが起こるのではないかと想像していました。そんなとき、1964年大会の公式映画、市川崑監督の『東京オリンピック』(1965年)を観ました。冒頭に、短いですが建物の解体シーンがあり、当時も東京の再開発が行われたことが示されていました。
私は映像のカメラマンとして仕事をしていましたが、公式映画を撮る立場にはなく、競技場の中にカメラを持って入ることもできません。しかし市川作品を観て、それでもなにか都市の視点からオリンピックについての映画を撮ることはできるんじゃないか。あるいは、オリンピックが始まる前にもできることはあるんじゃないか。そう考えて、リサーチを始めました。そうして霞ヶ丘アパートに行き当たります。

蔵屋:実際に足を運んでみていかがでしたか。

青山:神宮外苑花火大会のシーンなどがあるので、もしかしたらにぎやかな印象を持たれたかもしれませんが、ふだんは人っ子ひとりいない静かなところでした。周囲は華やかな商業地なのに、ここだけほんとうにボロボロで、どこか地方の団地に迷い込んだような、奇妙な場所でした。
6号棟の1階には「外苑マーケット」という商業スペースがあって、20年ほど前までは八百屋、菓子屋、米屋、クリーニング屋など複数の店舗があり、団地内だけで生活が完結するようになっていました。しかし、私が行ったころには八百屋さんとたばこ屋さんだけが残ってひっそりと営業を続けていました。
この八百屋さんのご夫婦は、作中に何度も出てきますね。旦那さんの方は町会長さんです。野菜やくだものだけでなく、お惣菜などもつくって売っていました。足が悪くて階段を上り下りするのがむずかしい高齢住民からの注文を電話で受けると、部屋まで届けます。この話にはあとでまた触れますので、覚えておいていただければ。
実際に撮影を始める前に、まずリサーチとして住民の話を聞きに行きました。先ほど話題に出た白髪の女性は、頭も切れる、口もまわるという非常に有名な方です。「この歳になって引っ越しなんてできません。困っています」と話していたので、映像を撮影する自分ができることはないかな、という感じで住民と接触していきました。

蔵屋:補足しておくと、この霞ヶ丘アパートは実はわりと有名なところで、これまでテレビのドキュメンタリーなどいろんなチームが入って撮影をしているんですよね。映画冒頭のシーンも、他のテレビ局のクルーがこの女性にインタビューしているところを、脇から青山さんが撮影している、というつくりになっています。

青山:はい。しかし他の人に話を聞いてみると、「いや、国策だから仕方がないよ」という人がいたり、「ほんとうは嫌だけど歳だしあきらめるよ」という人がいたりして、移転に反対してでも住み続けたいという意見ひとつではありませんでした。できることならこの住宅に住み続けたいという人がほとんどだったかと思いますが、オリンピック開催の是非はそれぞれだったのではないでしょうか。
たとえば八百屋の町会長さんですが、この人はお店に行けばいつもいるので、私も会う機会がつくりやすい人のひとりでした。彼は町会長という立場上、住民をまとめなければならず、「反対なんてとんでもない、もともと公営なんだし、新しい住居も提供してくれるなんてありがたい話なんだから」という意見でした。なかなか理解しづらいことですが、町会は、当初こそ移転に反対していましたが、すぐに東京都と共に住民に移転を促す方向へと立場を変えていました。
2014年当時、あそこには約160世帯が住んでいましたから、それだけ人数がいればバラバラなのが自然です。私も、このアパートを取材したマスメディアも、どうしても「オリンピックに終の棲家を奪われた。助けて!」という声の方に気持ちが寄っていってしまいます。しかし実際にはさまざまな意見があることを、いったいどう扱ったらいいのか、悩んでしまいました。
でも、立ち退きの期限は2016年1月です。リサーチばかりで止まっているわけにもいきません。オリンピックはスポーツの祭典です。その対極にあるものばかりで構成することにして、とにかく撮影を始めました。若く健康なスポーツ選手ではなく、高齢者ばかりが登場する。動きはほとんどなく、座って食事をしているとかテレビを見ているとかいった場面が主になる。カメラも動かさず、基本的には三脚に据えっぱなしのフィックス撮りというスタイルです。オリンピックがハレの場であるとすれば、ケの場である生活をひたすら捉えるというイメージです。

蔵屋:わたしはこの映画にあわせて出版された冊子『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』(左右社、2021年)のボランティア編集者を務めました。当初は自費出版でしたが、現在は左右社さんから一般書籍として刊行されています。青山さんのプロダクションノートから、立ち退き通告書をはじめとする一次資料の採録、住民にかかわった社会学の方や、作中の上映会にかかわった方の論考など、たいへん充実したものになりました。しかし、原稿が出そろったところで見直すと、社会的な視点からの議論が多く、視覚・聴覚表現としての映画の分析がないことに気がつきました。そこで急遽でしゃばって、自分でテキストを書きました(「ただ見る『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』」)。
たとえばいま青山さんが言われたフィックス撮りです。これがもし手持ちカメラだったら、住民のみなさんはついカメラに目線を向け、カメラの向こうの青山監督に話しかけるでしょう。そうするとこの映画の印象も大きく異なっていたにちがいありません。置きっぱなしのカメラだからこそ、被写体となった方たちは、次第にカメラの存在を忘れて、ひとりでいるときにしかしないような無防備な顔をわたしたちに見せてくれるのです。
またナレーションがない、いわゆる「ノーナレ」であることも重要です。大友良英さんのミニマルな音楽以外に聞こえるのは、会話の声、食器が触れ合う音、鳥や猫の声といった生活音だけで、そこに解釈はほとんどありません。
その結果、いろいろな意見を持ついろいろな人の人生が、単純な説明によってまとめられることなく、ただ観る者の前にばらばらに投げ出されている、というこの映画のトーンができました。そして、それと引き換えに、説明がないからアパートの立地や歴史がわからない、八百屋さんが町会長だ、みたいな人間関係もわからない、ということになりました。
ちなみに、この「すみっこ展」対談シリーズをやるにあたって、当初青山さんから、この人と話をしたい、といろいろアイデアをいただいたんですよね。しかし、社会問題としての視点からこの映画を語る候補が多く、わたしがぐずぐずしぶってしまった。また、「棄民」という観点からこの映画を考える、という案ももらったんですが、住民たちを「棄てられたかわいそうな弱者」と捉えることには抵抗があって、またまたわたしが引っかかってしまった。
映画をよく見ると、この人たちにはこの人たちなりの思惑や図々しさやどろどろとした人間関係があることがわかります。そこには、いい意味でも悪い意味でも、単にかわいそうではくくり切れない、生きていることのエネルギーに由来するぎらついた部分があります。
また、ここで霞ヶ丘アパートの人たちを「棄民」と呼んでしまうと、となりに展示している折元立身さんも、そのとなりの松田修さんや、作品のモチーフとなっている松田さんのお母さんも、すべて「棄てられたかわいそうな弱者」に見えてしまうのではないかという点も引っかかりました。コロナ禍という非常事態の中で、生存の条件をおびやかされながら、それでも、というか、それゆえに、この機をとらえて「すみっこ」にいる人々が声をあげている。それを前向きに捉えないとやりきれない、というのが、この展覧会を企画したわたしの意図だったからです。
しかし、では、社会的なことを脇に置いて純粋に映画の視覚・聴覚要素だけを分析していればいいのか。この人たちだって自分の意志を持ってたくましくやってるんだからと放っておけばいいのか。というと、どうもそれだけではないわけです。

青山:この映画を撮った動機はやはりオリンピックです。実際オリンピック開催をめぐってさまざまな問題が噴出しました。そのことを意識して、オリンピック開幕のタイミングに合わせて映画の公開もしました。私がいくつか受けたマスコミの取材では、オリンピックがいかにダメか、この人たちの生活をどう蝕んだか、公式映画はこれでいいのか、そういうことを私に言ってほしい、という取材者の期待を強く感じました。
こうしたことにつき、私個人としてはけっこうスパっと言えたりするんです。しかしこの映画は、霞ヶ丘アパートの人たちの最後の生活を映像におさめたものです。立ち退き後、すぐに亡くなった人もいるので、その場合は彼らの人生の最後の姿を撮らせてもらったことになる。彼らは決してオリンピックに反対するために生きているわけではないし、反対していない人だっている。それをオリンピック反対という視点だけに回収すると、彼らの生を、生活を、矮小化してしまうと感じます。
だから、マスコミの取材を受けると正直困ってしまい、なんだかムズムズする感じを抱えながらその都度答えてきました。
複雑なので詳細はお伝えできないんですが、実はいく組か、立ち退きに反対する住民を支援したい、というグループがあったんです。しかし、町会から敷地内に立ち入らないでくれ、と断られました。
そういう事情を知ると、この映画が取るべき立ち位置は、立ち退きに賛成でも反対でもなく、オリンピックを否定するでもなく、とにかく生活風景を撮る、というところに落ち着かざるを得ないわけです。これがもしオリンピック反対、高齢住民を守れ、と正論を突き付けてカメラを回し始めたら、きっと他のグループと同じように追い出されていたでしょう。
先ほど言ったように、このアパートにいろいろな意見を持つ人がいることを、いったいどう扱えばいいのか、はじめは戸惑いました。しかし彼らはみんな私の3〜4倍近い年齢です。制作者の正しさは脇において、カメラの前の彼らをリスペクトし、すべて引き受ける、ということを撮影中は意識しました。個人として理解できないことや納得できないことは多々起こるわけですが、結果としてそこを受け入れたことが、映画的なゆたかさにつながったのではないかと思います。いわゆる抗議活動とはまた違った視点の映画になっていると思います。

蔵屋:それにしても、このアパートはあらためて町会が強いところなんですね。展示資料にもいくつか『霞ヶ丘町町会ニュース』を展示していますが、活発な活動ぶりがうかがわれます。

青山:はい。たとえば町会長の八百屋さんは、町会長として影響力を持つことはもちろん、それ以上の意味でも住民が頼っていた人だと思います。
この八百屋さんは、さっき話に出たように、お惣菜をつくって、足が悪く買い物に出ることがむずかしいお年寄りに届けていました。これは住民が高齢化するにつれ、自然にできあがっていったシステムだと思います。しかし、こうして食という重要な要素を握られると、みんなそれに依存するようになります。そういう関係性の中では、もし反対意見があってもなかなか言い出しづらくなってしまいます。
実はあの冒頭の白髪の女性も、この配達システムを利用していたんですよ。

蔵屋:あんなにはっきりと物を言うあの女性ですら頼り、もしかしたらそれとの兼ね合いで行動を考えざるを得ない。一面でそういうしくみによってこのアパートはまわっていたんですね。

青山:ええ。お年寄り同士が助け合うというと、理想のシステムのように思えますが、ひとたび大きな問題が持ち上がるとその怖さが露呈します。

蔵屋:まさに、非常事態によって生存の条件があぶり出されるわけですね。

青山:結局、東京都に対して反対の声をあげた白髪の女性も、移転を進める立場にあった人も、ほんとうの気持ちを言うことができなかった人たちも、すべて撮影する。これがこの映画の方針となりました。
もちろん、ひとりを主人公にした方が楽なんですよ。たとえば、白髪の女性、町会長さん夫妻の他に、もうひとり、何度も登場する人物として、片腕の男性がいますね。この人を中心にまとめることだってできました。しかしいろいろ経て、最終的に、何人かの人が出てきたらこの男性の場面をはさむ、という構成に落ち着きました。どうしてこの人が片腕をなくしたのか、何をして暮らしてきたのか、といった説明は一切せず、ただただ彼の生活を写したんです。

蔵屋:説明がないので、観る側は必死に画面を観察して情報を得ようとしますよね。顔、服装、言葉、部屋にあるさまざまなものなどから、ひとりひとりを覚え、彼らの生活を推測し、その人物像を組み立てようと注意力をフルに働かせます。たとえば、片腕の男性の部屋にはどうしてあんなにたくさんの高価な楽器がそろっているんだろう?ドラムセットにトランペット、マイク…視線はどんどん細部に向かいます。うしろに見えるふすまにたくさんシールみたいなものが貼ってあるけど、あれはなんなんだろう?他人の家の中をこんなに無遠慮に観察する機会は、そうそうないかもしれませんね。
だからこの映画、わたしは何回も見ているんですが、飽きないし、見るたびに見落としていた細部を発見します。今日も、冒頭の白髪の女性のシーンでちょっとだけテーブルの上の調味料入れが映るのを見て、あれ、こんなカットあったっけ、と思いました。
わたしが特に好きなのは、終わり近く、山と積まれたモノ越しに、ひとり掃除をする女性を捉えたシーンです。こんなにモノがたくさんあるところで、床に空いた小さな空間を一生懸命掃き掃除している。しかもよく見ると、手に持っているのはちりとりではなくうちわです。途中誰かから電話がかかってきて、女性は、いまたいへんな状態だよ、お父さんの介護もあるし泣きたいよ、と電話の相手に訴えます

青山:先ほどお話したように、この映画はほぼ全編フィックス撮りで撮影しています。特にこのシーンは特徴的で、私はこのとき、電話がかかってきたか何かで少しだけカメラを置いたままこの場を離れていました。その際に撮れていた映像でした。

蔵屋:これがフィックス撮りの力ですね。監督の姿が文字通り消えて、完全に他人の目がなくなったところで、カメラの存在を忘れ、この女性はまるで大量のモノの中のひとつになってしまったように見えます。人間がモノに同化しているというか、モノが人間のすべてを語っているというか、恐るべきシーンだなあと思います。
ちなみに、部屋の一番奥の部分に、よく見ると人形が3体座っていますね。

青山:これはもともと子ども向けにつくられたおもちゃで、話しかけると返事をするというものです。話しかけられ続けることでちょっとずつ言葉を覚えて成長します。同じものをアパートの他の部屋でもけっこう見かけました。
特にこの女性は、彼らを自分の子どもみたいにかわいがっていましたね。最近この女性の移転先に遊びに行ったら、心臓を悪くしてペースメーカーを入れてから、電池が入っているこの子たちを抱っこしてあげられなくなった、と嘆いていました。そのようすは、本編にはない特典映像として、今回小さなモニターで展示しています。

蔵屋:まさに人とモノとがあまりに深く関わるというか、人とモノが境界を失ってしまうような世界ですね。
このシーンを見るたびわたしは、人間って生きていくうえでこんなにモノが必要なんだっけ、と驚かされます。そして、でも、誰もがみんな最後にはこれらのモノを捨ててどこか別の場所へと移っていかねばならないんだよなあ、と、都営霞ヶ丘アパートという個別的な話を越えて、普遍的な人の生き死にを考えさせられてしまいます。

青山:そうですね。この映画を見て感想をくれたのは、まずはもちろんオリンピック問題に関心を持つ人たちでした。でも、次に多かったのは介護世代の人たちです。自分の親と重なって見える、と。

蔵屋:わかりますね。親が歳を取って、どんどんモノをため込んで、実家がまるでゴミ屋敷みたいになってくる。でもそれらは親にとってはすべて意味あるものなので、勝手に捨てられたくない。じゃあ自分で気に入るよう片付けてよ、と言っても、本人たちにその気力、体力はないんです。
さて、残り時間も少なくなってきました。最後に、先ほど少し話しかけた、かわいそうとは言いたくない、でも、見過ごしていいのかといえばそうでもない、という話に戻っていいでしょうか。
この件は青山さんとわたしのあいだでずっともやもやしていて、LINEで夜中に延々と話をしたりしていたんですよね。
しかし、昨日たまたまネットで、社会学者の丸山里美さんと岸政彦さんの対談記事を見つけて、ああ、これだ、とふたりともけっこう納得しました(「丸山里美×岸政彦 スペシャル対談 『質的調査の話』」2022年)。
この対談は、丸山さんの『女性ホームレスとして生きる 貧困と排除の社会学[増補改訂版]』(世界文化社、2022年)という本の出版を記念して行われたものです。その中でお二人は、ふつうに暮らしていたころよりホームレスになったいまの方がしあわせだ、と語る女性の例を引いています。すごい話だ、思い込みを崩されるこういう話を聞きたくて調査をするんだ、と言いつつ、しかしこれが、じゃあ彼女らは楽しくやっているんだから放っておけばいいじゃないか、と読まれてしまうことに危険を感じるとも述べています。このことを岸さんは、「かわいそう」でも「たくましい」でもないやり方はないのか、と表現しています。まさにそこなんです。
霞ヶ丘アパートの人たちを単純にかわいそうとは言いたくない。しかし、たくましいと言ってしまうと、理不尽なことが起こっているのに、本人たちだってけっこう図太くやってるんだからなんの問題もないでしょう、となってしまう。

青山:町会のことでいうと、先ほど言ったように、なぜすぐに移転を受け入れたのか、私はなかなか理解できませんでした。しかし、そこには何かしらの背景があったものと思います。
一般に、公営住宅には公明党と共産党の支持層が多いと言われています。とりわけこのアパートは両党の本部が近くにあり、どちらの支持者も多いところでした。特に町会のメンバーには公明党支持の方が多かったと聞いています。公明党は自民党と共にオリンピック開催を進めていましたし、町会には、直接的もしくは間接的に、自ら「たくましく」権力と一体化することによって守ろうとした何かがあったのではないでしょうか。
私はそういう部分も引き受けてカメラを回しました。そのことによって、「かわいそう」も「たくましい」もフラットに扱うところへと映画を持っていけたと思います。

蔵屋:そういう話を聞いたうえで町会長さんにシンパシーを持つことは、わたしだってなかなかむずかしいです。しかし青山さんは、住民によるフィルム上映会のあと、暗がりで、立場があるから自分が住民をまとめなければ、と語る町会長さんをとまどいながらも撮影し、それを編集で残したわけですよね。これがいまおっしゃった「引き受ける」ということなんだろうと思います。
私は、ほんとうに注視すべきは「アパートの町会長さん」ではなく、その背後にあるもっと大きなものだと思います。そして、町会長さんはさておき、その背後にあるものに対し、カメラを持つ人間が、ほんとうにニュートラルな態度を保ったままでいいのかというと、そうではないだろうなと感じます。

青山:たとえば、映画ではあまり説明されませんが、東京都の立ち退きに対する説明はほんとうに誠意のないものでした。当初の理由は、2012年のA4の紙にあったように、ラグビーワールドカップ開催のための国立競技場建て替えと、それにともなう一帯の整備でした。2015年に競技場のザハ・ハディド案が撤回され、では立ち退きの話はなくなったかと思えば、今度は都市整備のためと理由を変えました。そこではアパートの敷地は「バリアフリーに対応した観客動線や人だまり空間」の確保のために必要だ、と説明されていました。しかし、結局アパートの跡地はそんな機能を担うこともないまま、いまも中途半端に放置されています。また、立ち退きに反対する住民への都職員の圧力のかけ方も、実際にはかなりひどいものでした。

蔵屋:先ほどの丸山さんと岸さんは、自分たちは問題解決の処方箋を出すタイプの社会学者ではない。ただ思い込みを捨てていろんな話に耳を傾けるだけなんだ。しかしそれは、社会問題を放置することとイコールではない。実際に、こういうスタイルで研究をしつつ、同時にシェルターを運営して当事者に寄り添う人もいる。たくましい、と、問題を見過ごさない、は両立できるんだ、と言っています。

青山:この映画については、オリンピックにまつわるいろいろな理不尽さを引き受けたまま、目の前のものを徹底して見せることで、十分に力を持つ表現ができたのではないかと思います。この題材は、これまでお話したような理由で、ニュートラルに撮ることが最善でした。というより、それしか選択肢はありませんでした。しかし、いつもそうである必要はない。それは題材によって変わるものだと思います。

蔵屋:そうですね。なにせ青山さんはこれが監督デビュー作ですから、次のことを考えなければなりませんね。

青山:今後の作品の中で、このバランスを考えながら制作を続けられればと思っています。

*「丸山里美×岸政彦 スペシャル対談 『質的調査の話』」『せかいしそう』2022年1月28日[2022年5月12日閲覧]https://web.sekaishisosha.jp/posts/5616

文責:蔵屋美香