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アーカイブ:「すみっこCRASH☆」トーク(青山真也 × 蔵屋美香)
トークイベントのアーカイブを公開いたしました。
参加できなかった方も、ぜひご覧ください。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上映会:青山真也監督作品「東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート」アフタートーク
青山真也(映画監督)× 蔵屋美香(本展キュレーター / 横浜美術館館長)日時:2022年3月13日(日)18:00-19:00
会場:無人島プロダクションーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
蔵屋美香:ではトークを始めます。いまみなさまにご覧いただいた映画《東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート》(2021年)は、これからお話していきますが、いろいろな理由から作中にほとんど説明がありません。ですので、このトークでは、都営霞ヶ丘アパートという場所について、また撮影の実際についてなど、監督の青山真也さんにどんどんうかがっていきたいと思います。
青山真也:よろしくお願いします。おっしゃるとおり、この映画にはほんとうに説明がありません。テロップも最低限で、鑑賞者はただひたすら高齢の方たちの生活を見せられることになります。
まず、ここがどういう場所なのかご説明しますね。
このアパートがあったのは、JR総武線の千駄ヶ谷駅付近、原宿や青山にも近い、東京の一等地でした。建築家、隈研吾さんによって建て替えが行われた国立競技場のすぐそばで、一帯には他に神宮球場や秩父宮ラグビー場もあり、スポーツの聖地といわれています。
第二次世界大戦末期の1945年の空襲により、このあたりは焼け野原となりました。戦後、この焼け野原に木造長屋の「霞岳(かすみがおか)都営住宅」がつくられました。戦災で家を失った人や大陸からの引き揚げ者のための住まいが急ぎ必要だったんです。
これが1964年の東京オリンピックのときに取り壊され、代わりに建てられたのが映画の舞台となった「都営霞ヶ丘アパート」でした。最後はボロボロでしたが、竣工当時としては、水洗トイレもあるハイカラな住宅でした。10棟に300世帯が住める設計でした。
現在の公営住宅は、たとえば何歳以上とか、収入がいくら以下とか、年齢や所得によって入居の条件が定められていて、人も入れ替わります。しかしここは他とは異なり、64年の竣工当時から住んでいる人、あるいは建て替え前の霞岳都営住宅から移ってきた人などが多くいました。冒頭に出てくる90歳になる白髪の女性も、若い頃からこのアパートに住み、子育てをし、その子どもが巣立って、旦那さんを亡くして、ひとり暮らしでした。こういう方がとても多いところでした。
そんなアパートに、2012年7月、東京都より突如、ラグビーワールドカップ開催のために国立競技場を建て替える、周辺もあわせて整備するから立ち退いてくれ、という通告が来ます。会場に実物を展示していますが、この通告は、日付もないA4用紙1枚の、ほんとうに簡単なものでした。いたずらを疑った住民もいたぐらいでした。
私がこのアパートを知ったのは2013年でしたが、そのころに住んでいた若い世帯は早々に引っ越し、高齢者ばかりが残っていました。蔵屋:さかのぼって、そもそも青山さんがこのアパートに行きついた経緯を教えていただけますか。
青山:東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まったのは、2013年9月のことでしたね。2012年のロンドン大会でもジェントリフィケーションが問題となったので、今回の東京大会でもひどいことが起こるのではないかと想像していました。そんなとき、1964年大会の公式映画、市川崑監督の『東京オリンピック』(1965年)を観ました。冒頭に、短いですが建物の解体シーンがあり、当時も東京の再開発が行われたことが示されていました。
私は映像のカメラマンとして仕事をしていましたが、公式映画を撮る立場にはなく、競技場の中にカメラを持って入ることもできません。しかし市川作品を観て、それでもなにか都市の視点からオリンピックについての映画を撮ることはできるんじゃないか。あるいは、オリンピックが始まる前にもできることはあるんじゃないか。そう考えて、リサーチを始めました。そうして霞ヶ丘アパートに行き当たります。蔵屋:実際に足を運んでみていかがでしたか。
青山:神宮外苑花火大会のシーンなどがあるので、もしかしたらにぎやかな印象を持たれたかもしれませんが、ふだんは人っ子ひとりいない静かなところでした。周囲は華やかな商業地なのに、ここだけほんとうにボロボロで、どこか地方の団地に迷い込んだような、奇妙な場所でした。
6号棟の1階には「外苑マーケット」という商業スペースがあって、20年ほど前までは八百屋、菓子屋、米屋、クリーニング屋など複数の店舗があり、団地内だけで生活が完結するようになっていました。しかし、私が行ったころには八百屋さんとたばこ屋さんだけが残ってひっそりと営業を続けていました。
この八百屋さんのご夫婦は、作中に何度も出てきますね。旦那さんの方は町会長さんです。野菜やくだものだけでなく、お惣菜などもつくって売っていました。足が悪くて階段を上り下りするのがむずかしい高齢住民からの注文を電話で受けると、部屋まで届けます。この話にはあとでまた触れますので、覚えておいていただければ。
実際に撮影を始める前に、まずリサーチとして住民の話を聞きに行きました。先ほど話題に出た白髪の女性は、頭も切れる、口もまわるという非常に有名な方です。「この歳になって引っ越しなんてできません。困っています」と話していたので、映像を撮影する自分ができることはないかな、という感じで住民と接触していきました。蔵屋:補足しておくと、この霞ヶ丘アパートは実はわりと有名なところで、これまでテレビのドキュメンタリーなどいろんなチームが入って撮影をしているんですよね。映画冒頭のシーンも、他のテレビ局のクルーがこの女性にインタビューしているところを、脇から青山さんが撮影している、というつくりになっています。
青山:はい。しかし他の人に話を聞いてみると、「いや、国策だから仕方がないよ」という人がいたり、「ほんとうは嫌だけど歳だしあきらめるよ」という人がいたりして、移転に反対してでも住み続けたいという意見ひとつではありませんでした。できることならこの住宅に住み続けたいという人がほとんどだったかと思いますが、オリンピック開催の是非はそれぞれだったのではないでしょうか。
たとえば八百屋の町会長さんですが、この人はお店に行けばいつもいるので、私も会う機会がつくりやすい人のひとりでした。彼は町会長という立場上、住民をまとめなければならず、「反対なんてとんでもない、もともと公営なんだし、新しい住居も提供してくれるなんてありがたい話なんだから」という意見でした。なかなか理解しづらいことですが、町会は、当初こそ移転に反対していましたが、すぐに東京都と共に住民に移転を促す方向へと立場を変えていました。
2014年当時、あそこには約160世帯が住んでいましたから、それだけ人数がいればバラバラなのが自然です。私も、このアパートを取材したマスメディアも、どうしても「オリンピックに終の棲家を奪われた。助けて!」という声の方に気持ちが寄っていってしまいます。しかし実際にはさまざまな意見があることを、いったいどう扱ったらいいのか、悩んでしまいました。
でも、立ち退きの期限は2016年1月です。リサーチばかりで止まっているわけにもいきません。オリンピックはスポーツの祭典です。その対極にあるものばかりで構成することにして、とにかく撮影を始めました。若く健康なスポーツ選手ではなく、高齢者ばかりが登場する。動きはほとんどなく、座って食事をしているとかテレビを見ているとかいった場面が主になる。カメラも動かさず、基本的には三脚に据えっぱなしのフィックス撮りというスタイルです。オリンピックがハレの場であるとすれば、ケの場である生活をひたすら捉えるというイメージです。蔵屋:わたしはこの映画にあわせて出版された冊子『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』(左右社、2021年)のボランティア編集者を務めました。当初は自費出版でしたが、現在は左右社さんから一般書籍として刊行されています。青山さんのプロダクションノートから、立ち退き通告書をはじめとする一次資料の採録、住民にかかわった社会学の方や、作中の上映会にかかわった方の論考など、たいへん充実したものになりました。しかし、原稿が出そろったところで見直すと、社会的な視点からの議論が多く、視覚・聴覚表現としての映画の分析がないことに気がつきました。そこで急遽でしゃばって、自分でテキストを書きました(「ただ見る『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』」)。
たとえばいま青山さんが言われたフィックス撮りです。これがもし手持ちカメラだったら、住民のみなさんはついカメラに目線を向け、カメラの向こうの青山監督に話しかけるでしょう。そうするとこの映画の印象も大きく異なっていたにちがいありません。置きっぱなしのカメラだからこそ、被写体となった方たちは、次第にカメラの存在を忘れて、ひとりでいるときにしかしないような無防備な顔をわたしたちに見せてくれるのです。
またナレーションがない、いわゆる「ノーナレ」であることも重要です。大友良英さんのミニマルな音楽以外に聞こえるのは、会話の声、食器が触れ合う音、鳥や猫の声といった生活音だけで、そこに解釈はほとんどありません。
その結果、いろいろな意見を持ついろいろな人の人生が、単純な説明によってまとめられることなく、ただ観る者の前にばらばらに投げ出されている、というこの映画のトーンができました。そして、それと引き換えに、説明がないからアパートの立地や歴史がわからない、八百屋さんが町会長だ、みたいな人間関係もわからない、ということになりました。
ちなみに、この「すみっこ展」対談シリーズをやるにあたって、当初青山さんから、この人と話をしたい、といろいろアイデアをいただいたんですよね。しかし、社会問題としての視点からこの映画を語る候補が多く、わたしがぐずぐずしぶってしまった。また、「棄民」という観点からこの映画を考える、という案ももらったんですが、住民たちを「棄てられたかわいそうな弱者」と捉えることには抵抗があって、またまたわたしが引っかかってしまった。
映画をよく見ると、この人たちにはこの人たちなりの思惑や図々しさやどろどろとした人間関係があることがわかります。そこには、いい意味でも悪い意味でも、単にかわいそうではくくり切れない、生きていることのエネルギーに由来するぎらついた部分があります。
また、ここで霞ヶ丘アパートの人たちを「棄民」と呼んでしまうと、となりに展示している折元立身さんも、そのとなりの松田修さんや、作品のモチーフとなっている松田さんのお母さんも、すべて「棄てられたかわいそうな弱者」に見えてしまうのではないかという点も引っかかりました。コロナ禍という非常事態の中で、生存の条件をおびやかされながら、それでも、というか、それゆえに、この機をとらえて「すみっこ」にいる人々が声をあげている。それを前向きに捉えないとやりきれない、というのが、この展覧会を企画したわたしの意図だったからです。
しかし、では、社会的なことを脇に置いて純粋に映画の視覚・聴覚要素だけを分析していればいいのか。この人たちだって自分の意志を持ってたくましくやってるんだからと放っておけばいいのか。というと、どうもそれだけではないわけです。青山:この映画を撮った動機はやはりオリンピックです。実際オリンピック開催をめぐってさまざまな問題が噴出しました。そのことを意識して、オリンピック開幕のタイミングに合わせて映画の公開もしました。私がいくつか受けたマスコミの取材では、オリンピックがいかにダメか、この人たちの生活をどう蝕んだか、公式映画はこれでいいのか、そういうことを私に言ってほしい、という取材者の期待を強く感じました。
こうしたことにつき、私個人としてはけっこうスパっと言えたりするんです。しかしこの映画は、霞ヶ丘アパートの人たちの最後の生活を映像におさめたものです。立ち退き後、すぐに亡くなった人もいるので、その場合は彼らの人生の最後の姿を撮らせてもらったことになる。彼らは決してオリンピックに反対するために生きているわけではないし、反対していない人だっている。それをオリンピック反対という視点だけに回収すると、彼らの生を、生活を、矮小化してしまうと感じます。
だから、マスコミの取材を受けると正直困ってしまい、なんだかムズムズする感じを抱えながらその都度答えてきました。
複雑なので詳細はお伝えできないんですが、実はいく組か、立ち退きに反対する住民を支援したい、というグループがあったんです。しかし、町会から敷地内に立ち入らないでくれ、と断られました。
そういう事情を知ると、この映画が取るべき立ち位置は、立ち退きに賛成でも反対でもなく、オリンピックを否定するでもなく、とにかく生活風景を撮る、というところに落ち着かざるを得ないわけです。これがもしオリンピック反対、高齢住民を守れ、と正論を突き付けてカメラを回し始めたら、きっと他のグループと同じように追い出されていたでしょう。
先ほど言ったように、このアパートにいろいろな意見を持つ人がいることを、いったいどう扱えばいいのか、はじめは戸惑いました。しかし彼らはみんな私の3〜4倍近い年齢です。制作者の正しさは脇において、カメラの前の彼らをリスペクトし、すべて引き受ける、ということを撮影中は意識しました。個人として理解できないことや納得できないことは多々起こるわけですが、結果としてそこを受け入れたことが、映画的なゆたかさにつながったのではないかと思います。いわゆる抗議活動とはまた違った視点の映画になっていると思います。蔵屋:それにしても、このアパートはあらためて町会が強いところなんですね。展示資料にもいくつか『霞ヶ丘町町会ニュース』を展示していますが、活発な活動ぶりがうかがわれます。
青山:はい。たとえば町会長の八百屋さんは、町会長として影響力を持つことはもちろん、それ以上の意味でも住民が頼っていた人だと思います。
この八百屋さんは、さっき話に出たように、お惣菜をつくって、足が悪く買い物に出ることがむずかしいお年寄りに届けていました。これは住民が高齢化するにつれ、自然にできあがっていったシステムだと思います。しかし、こうして食という重要な要素を握られると、みんなそれに依存するようになります。そういう関係性の中では、もし反対意見があってもなかなか言い出しづらくなってしまいます。
実はあの冒頭の白髪の女性も、この配達システムを利用していたんですよ。蔵屋:あんなにはっきりと物を言うあの女性ですら頼り、もしかしたらそれとの兼ね合いで行動を考えざるを得ない。一面でそういうしくみによってこのアパートはまわっていたんですね。
青山:ええ。お年寄り同士が助け合うというと、理想のシステムのように思えますが、ひとたび大きな問題が持ち上がるとその怖さが露呈します。
蔵屋:まさに、非常事態によって生存の条件があぶり出されるわけですね。
青山:結局、東京都に対して反対の声をあげた白髪の女性も、移転を進める立場にあった人も、ほんとうの気持ちを言うことができなかった人たちも、すべて撮影する。これがこの映画の方針となりました。
もちろん、ひとりを主人公にした方が楽なんですよ。たとえば、白髪の女性、町会長さん夫妻の他に、もうひとり、何度も登場する人物として、片腕の男性がいますね。この人を中心にまとめることだってできました。しかしいろいろ経て、最終的に、何人かの人が出てきたらこの男性の場面をはさむ、という構成に落ち着きました。どうしてこの人が片腕をなくしたのか、何をして暮らしてきたのか、といった説明は一切せず、ただただ彼の生活を写したんです。蔵屋:説明がないので、観る側は必死に画面を観察して情報を得ようとしますよね。顔、服装、言葉、部屋にあるさまざまなものなどから、ひとりひとりを覚え、彼らの生活を推測し、その人物像を組み立てようと注意力をフルに働かせます。たとえば、片腕の男性の部屋にはどうしてあんなにたくさんの高価な楽器がそろっているんだろう?ドラムセットにトランペット、マイク…視線はどんどん細部に向かいます。うしろに見えるふすまにたくさんシールみたいなものが貼ってあるけど、あれはなんなんだろう?他人の家の中をこんなに無遠慮に観察する機会は、そうそうないかもしれませんね。
だからこの映画、わたしは何回も見ているんですが、飽きないし、見るたびに見落としていた細部を発見します。今日も、冒頭の白髪の女性のシーンでちょっとだけテーブルの上の調味料入れが映るのを見て、あれ、こんなカットあったっけ、と思いました。
わたしが特に好きなのは、終わり近く、山と積まれたモノ越しに、ひとり掃除をする女性を捉えたシーンです。こんなにモノがたくさんあるところで、床に空いた小さな空間を一生懸命掃き掃除している。しかもよく見ると、手に持っているのはちりとりではなくうちわです。途中誰かから電話がかかってきて、女性は、いまたいへんな状態だよ、お父さんの介護もあるし泣きたいよ、と電話の相手に訴えます青山:先ほどお話したように、この映画はほぼ全編フィックス撮りで撮影しています。特にこのシーンは特徴的で、私はこのとき、電話がかかってきたか何かで少しだけカメラを置いたままこの場を離れていました。その際に撮れていた映像でした。
蔵屋:これがフィックス撮りの力ですね。監督の姿が文字通り消えて、完全に他人の目がなくなったところで、カメラの存在を忘れ、この女性はまるで大量のモノの中のひとつになってしまったように見えます。人間がモノに同化しているというか、モノが人間のすべてを語っているというか、恐るべきシーンだなあと思います。
ちなみに、部屋の一番奥の部分に、よく見ると人形が3体座っていますね。青山:これはもともと子ども向けにつくられたおもちゃで、話しかけると返事をするというものです。話しかけられ続けることでちょっとずつ言葉を覚えて成長します。同じものをアパートの他の部屋でもけっこう見かけました。
特にこの女性は、彼らを自分の子どもみたいにかわいがっていましたね。最近この女性の移転先に遊びに行ったら、心臓を悪くしてペースメーカーを入れてから、電池が入っているこの子たちを抱っこしてあげられなくなった、と嘆いていました。そのようすは、本編にはない特典映像として、今回小さなモニターで展示しています。蔵屋:まさに人とモノとがあまりに深く関わるというか、人とモノが境界を失ってしまうような世界ですね。
このシーンを見るたびわたしは、人間って生きていくうえでこんなにモノが必要なんだっけ、と驚かされます。そして、でも、誰もがみんな最後にはこれらのモノを捨ててどこか別の場所へと移っていかねばならないんだよなあ、と、都営霞ヶ丘アパートという個別的な話を越えて、普遍的な人の生き死にを考えさせられてしまいます。青山:そうですね。この映画を見て感想をくれたのは、まずはもちろんオリンピック問題に関心を持つ人たちでした。でも、次に多かったのは介護世代の人たちです。自分の親と重なって見える、と。
蔵屋:わかりますね。親が歳を取って、どんどんモノをため込んで、実家がまるでゴミ屋敷みたいになってくる。でもそれらは親にとってはすべて意味あるものなので、勝手に捨てられたくない。じゃあ自分で気に入るよう片付けてよ、と言っても、本人たちにその気力、体力はないんです。
さて、残り時間も少なくなってきました。最後に、先ほど少し話しかけた、かわいそうとは言いたくない、でも、見過ごしていいのかといえばそうでもない、という話に戻っていいでしょうか。
この件は青山さんとわたしのあいだでずっともやもやしていて、LINEで夜中に延々と話をしたりしていたんですよね。
しかし、昨日たまたまネットで、社会学者の丸山里美さんと岸政彦さんの対談記事を見つけて、ああ、これだ、とふたりともけっこう納得しました(「丸山里美×岸政彦 スペシャル対談 『質的調査の話』」2022年)。
この対談は、丸山さんの『女性ホームレスとして生きる 貧困と排除の社会学[増補改訂版]』(世界文化社、2022年)という本の出版を記念して行われたものです。その中でお二人は、ふつうに暮らしていたころよりホームレスになったいまの方がしあわせだ、と語る女性の例を引いています。すごい話だ、思い込みを崩されるこういう話を聞きたくて調査をするんだ、と言いつつ、しかしこれが、じゃあ彼女らは楽しくやっているんだから放っておけばいいじゃないか、と読まれてしまうことに危険を感じるとも述べています。このことを岸さんは、「かわいそう」でも「たくましい」でもないやり方はないのか、と表現しています。まさにそこなんです。
霞ヶ丘アパートの人たちを単純にかわいそうとは言いたくない。しかし、たくましいと言ってしまうと、理不尽なことが起こっているのに、本人たちだってけっこう図太くやってるんだからなんの問題もないでしょう、となってしまう。青山:町会のことでいうと、先ほど言ったように、なぜすぐに移転を受け入れたのか、私はなかなか理解できませんでした。しかし、そこには何かしらの背景があったものと思います。
一般に、公営住宅には公明党と共産党の支持層が多いと言われています。とりわけこのアパートは両党の本部が近くにあり、どちらの支持者も多いところでした。特に町会のメンバーには公明党支持の方が多かったと聞いています。公明党は自民党と共にオリンピック開催を進めていましたし、町会には、直接的もしくは間接的に、自ら「たくましく」権力と一体化することによって守ろうとした何かがあったのではないでしょうか。
私はそういう部分も引き受けてカメラを回しました。そのことによって、「かわいそう」も「たくましい」もフラットに扱うところへと映画を持っていけたと思います。蔵屋:そういう話を聞いたうえで町会長さんにシンパシーを持つことは、わたしだってなかなかむずかしいです。しかし青山さんは、住民によるフィルム上映会のあと、暗がりで、立場があるから自分が住民をまとめなければ、と語る町会長さんをとまどいながらも撮影し、それを編集で残したわけですよね。これがいまおっしゃった「引き受ける」ということなんだろうと思います。
私は、ほんとうに注視すべきは「アパートの町会長さん」ではなく、その背後にあるもっと大きなものだと思います。そして、町会長さんはさておき、その背後にあるものに対し、カメラを持つ人間が、ほんとうにニュートラルな態度を保ったままでいいのかというと、そうではないだろうなと感じます。青山:たとえば、映画ではあまり説明されませんが、東京都の立ち退きに対する説明はほんとうに誠意のないものでした。当初の理由は、2012年のA4の紙にあったように、ラグビーワールドカップ開催のための国立競技場建て替えと、それにともなう一帯の整備でした。2015年に競技場のザハ・ハディド案が撤回され、では立ち退きの話はなくなったかと思えば、今度は都市整備のためと理由を変えました。そこではアパートの敷地は「バリアフリーに対応した観客動線や人だまり空間」の確保のために必要だ、と説明されていました。しかし、結局アパートの跡地はそんな機能を担うこともないまま、いまも中途半端に放置されています。また、立ち退きに反対する住民への都職員の圧力のかけ方も、実際にはかなりひどいものでした。
蔵屋:先ほどの丸山さんと岸さんは、自分たちは問題解決の処方箋を出すタイプの社会学者ではない。ただ思い込みを捨てていろんな話に耳を傾けるだけなんだ。しかしそれは、社会問題を放置することとイコールではない。実際に、こういうスタイルで研究をしつつ、同時にシェルターを運営して当事者に寄り添う人もいる。たくましい、と、問題を見過ごさない、は両立できるんだ、と言っています。
青山:この映画については、オリンピックにまつわるいろいろな理不尽さを引き受けたまま、目の前のものを徹底して見せることで、十分に力を持つ表現ができたのではないかと思います。この題材は、これまでお話したような理由で、ニュートラルに撮ることが最善でした。というより、それしか選択肢はありませんでした。しかし、いつもそうである必要はない。それは題材によって変わるものだと思います。
蔵屋:そうですね。なにせ青山さんはこれが監督デビュー作ですから、次のことを考えなければなりませんね。
青山:今後の作品の中で、このバランスを考えながら制作を続けられればと思っています。
*「丸山里美×岸政彦 スペシャル対談 『質的調査の話』」『せかいしそう』2022年1月28日[2022年5月12日閲覧]https://web.sekaishisosha.jp/posts/5616
文責:蔵屋美香
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加藤翼 グループ展「国立国際美術館コレクション 現代アートの100年 ハロー、アート!世界に夢中になる方法」
2022年6月11日 – 8月21日
会場:大分県立美術館 -
小泉明郎 グループ展「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」
2022年6月29日 – 11月6日
会場:森美術館、東京 -
Liste アートフェアバーゼル
ブース:60
出品作家:臼井良平プレビュー: 2022年6月13日(月) 11:00 – 18:00
一般公開: 2022年6月13日(月)18:00 – 20:00
6月14日(火) – 18日(土)12:00 – 20:00
6月19日(日)11:00-16:00
https://www.liste.ch/en/home.html
Impressions, Messe Basel, Hall1.1, Photo: Gina Folly令和4度文化庁優れた現代美術の国際発信促進事業
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Liste Showtime
出品作家:臼井良平
プレビュー: 2022年6月8日 – 12日
一般公開: 2022年6月13日 – 26日
https://showtime.liste.ch/令和4度文化庁優れた現代美術の国際発信促進事業
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アーカイブ:「すみっこCRASH☆」トーク(松田修 × 蔵屋美香)
トークイベントのアーカイブを公開いたしました。
参加できなかった方も、ぜひご覧ください。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
すみっこCRASH☆ アーティスト・トーク
松田修(アーティスト)× 蔵屋美香(本展キュレーター / 横浜美術館館長)日時:2022年4月2日(土)12:30-13:30
会場:無人島プロダクションーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
蔵屋美香:それではトークを始めます。まずは松田さんから、出品作である《奴隷の椅子》(2020)を制作するに至った経緯についてお話いただけますか。
松田修:そうですね。そもそも、最初から僕の作品は、生まれ育った環境が作った自分の「美意識」みたいなものをアートに持ち込む、ということをしていたのだと思います。もっとも、それが言葉にできるようになったのは最近のことです。
スラム出身のアーティストというのは、あ、「スラム」という言葉を使うようになったのもここ3年ほどのことですが、なかなかいません。グラフィティのアーティストはいても、コンセプチュアルな、何かを考えることから作品を作る作家はおらず、そういうものを作りたいと考えてきました。なぜなら、美術史に「スラムにあるような美意識」が残らないということは、まるで自分がいなかったような気すらしてしまうからです。
それこそうちのおかん(母親)のように尼崎からほとんど出たことのない人をずっと取り上げたいと思っていたんですが、なかなかきっかけがつかめずにいました。そういう意味では、新型コロナウィルスの蔓延が、作品制作のトリガーになってくれたとも言えます。
尼崎は近年ジェントリフィケーションが進んでいます。阪神淡路大震災のとき液状化による地盤沈下がひどかったのに、いまではタワーマンションが建っていたりする。どんどんスラムの部分がなくなっているところで、コロナ禍に突入しました。近隣住民からのクレームや、市と警察からの営業中止要請をきっかけとして、売春街も店を閉めざるをえなくなった。その後、70年続いた売春街は消滅。これはいま作らねば、という使命感みたいなものを感じました。蔵屋:さっそく話を始めてみましたが、もしかして、東京の人は尼崎と言ってもぴんと来ないかも知れませんね。松田さんの作品をきちんと理解するために、まずは松田さんが生まれ育った尼崎という街についてお聞きしておいた方がよさそうです。
松田:そうですね。尼崎は兵庫県にあります。大阪に近く、神戸にも出やすい立地です。出身で有名なのは、お笑い芸人のダウンタウンです。
この街を、僕はふざけて「大人のディズニーランド」と呼んでいます。競馬場、競艇場、そしてパチンコ屋がほんとうに腐るほどあります。ギャンブル、飲み屋、風俗、そういうものがすべてあるところです。その中に「かんなみ新地」という売春街があって、その近所に僕の実家があります。
まわりはわりと高級住宅街も多くて、有名なのは芦屋でしょうか。そこでは条例があって、パチンコ屋ひとつ作ってはいけなかったりする。だから「そういうもの」を求めて、人は尼崎に来る。そんな事情から、僕は尼崎を「まわりの恥部を引き受けたやさしい街」とも呼んでいます。まあ「歓楽街オブ歓楽街」というか、まさに「ダウンタウン」ですね。
あとは工場地帯。うちの死んだおじい(祖父)は、自虐的に「水害、公害、人害がある街」なんて言っていました。「人害」っていうのは治安の悪さのことで、むかしは特に「行ったらあかん場所」として有名でした。あ、水害公害はともかく、いまも治安はよくはないです。蔵屋:阪神間というところはわかりやすくて、北の山から南の海に向かって、阪急、JR、阪神と3本の電車が走っています。阪急は富裕層が使うイメージで、JRは勤め人、阪神はおっちゃんらが乗る路線という感じですよね。
松田:まあ要するに南に下るほど工場地帯が近くなって、むかしは公害もひどかった。僕らの地域の人たちは尼崎のことを、親愛の情と自虐の念をこめて「アマ」と言ったりしますが、阪急沿線の住民には、一緒にされたくないのか、わざわざ「ムコノソウ」「ツカグチ」を自称する人もいます。
蔵屋:その「アマ」がいまのような街になったのは、たしか戦後のことですね。
松田:もとは湿地帯で人が住めるところではなかったと聞いています。でも先ほど言ったように大阪にも神戸にも出やすい場所なので、何とか使えないかということで、埋立地に工場を作ったり、競艇場を作ったり。労働者が住むようになって、闇市に始まるいろんな店ができて、という流れですね。まあ詳しい街の歴史のことは、僕は東京へ出てだいぶ経った後に、調べて知ったのですが。
蔵屋:日本における売春街の歴史もちょっとおさらいしておきましょう。まず、戦後の1946(昭和21)年に、戦前まであった公娼制度を廃止すべく、GHQが「日本における公娼の廃止」という覚書を出します。これを受けて、同年、内務省が「公娼制度廃止に関する件」という通牒を発します。しかし、これは公娼ではない「私娼」の存続は認めるものでした。12年後の1958(昭和33)年に「売春防止法」が施行され、ようやく日本の買売春は法的に禁止されることになりました。この12年の間に「特殊飲食店」という名目で買売春を行っていたのが、いわゆる「赤線」です。松田さんのご実家の近くにあるかんなみ新地は、これとは異なり、非公認で売春を行う「青線」に分類される場所で、つい最近まで営業が続けられてきたんですね。
松田:そうですね。
ひと通り整理が終わったところで、作品に話を戻すと、まず、おかんのインタビューを撮影しました。でも、それをそのまま使うとあまりに個人の話になってしまって、ある種の感動はあるかもしれないけれど、こうした状況を生む構造を意識させる話にはならないと感じました。そこで、内容はほぼインタビューのままとしながら、この女性を、もっと不特定多数の、世界の同じような状況や構造の中に置かれた存在にしたいと考えました。最終的に、写真を使ってセリフは僕がアテレコをする、といういまのかたちになりました。
最初に出てくるのは、僕が2歳のときですから、19歳で僕を生んだおかんが20歳ぐらいのころの写真です。映像の中盤に死んだおばあ(祖母)の写真、後半には現在のおかんの写真も出てきます。
写真を動かすために、複数のソフトやアプリを組み合わせ、2Dの写真を3Dにしました。このために勉強して。3Dのかたちに沿って写真に点を打って。あとは、こう動かしたら笑顔になるとか、しかめ面になるとか、パターンを設定して、そのくり返しですね。
[作品を見ながら]あ、いまちょうど、いちばん苦しいときに家族でハムを切って分けて食べた、というセリフが出てきましたね。
忘れないうちに言うと、これはもともと僕のネタだったんです。学校で、「うち今日ハムしか食べてへんねん」とか「うちなんてあめ玉ひとつやで」みたいな友だちとの貧乏自慢があって。それをおかんがどこかで耳にして、「あんた外でハムしか食べてへんて言ったやろ」と。だからインタビューの中で、おかんはいわば笑いのネタとして僕にこの話を持ち出しているわけです。
しかし同時に、おかんは僕らに対して申し訳なく思っているところもあって、東京にきたときとか、僕が結婚したときとか、そんなときはいまでも必ずハムを差し入れてくれる。
「東京にもハムは売ってんねん!」って僕がつっこむまでが定番ですね。
別のところで、女の子が欲しかった。名前も「朝子」と決めていた。でも男ばかりが3人生まれた。「みっつそろったらなんかもらえるんとちゃんうかい」と三男のタマを洗いながら思った。という話が出てきますが、これもハム同様、おかんの定番のネタです。小さいころから僕ら兄弟全員が何度も聞かされてきたネタですが、いまにして思えば、夜の生活が中心だったおかんが、子どもに「朝子」って名付けたかったっていうのは、深い話なのかもしれないですね。蔵屋:いま流れている「長男が東京で詐欺まがいのことをしている。お母さんは恥ずかしいです」というセリフも、なかなかすごいですね。
松田:10年くらい前ですかね、おかんが東京へ来たとき、僕はお世話になっている無人島プロダクションにあいさつしてくれ、と頼みました。そしたらこわい、と断られたんです。そこで、無人島のことを詐欺会社だと勘違いしているらしいことがわかりました。おかんは僕が、いちばん危ない「出し子」をしていると思い込んでいて、せめて顔を出さない社員にしてもらえ、詐欺をやめろとは言わないから、危なくないようにやれ、と言うんです。無人島には社員の話は断られましたが(笑)。
ただ、おかんは鋭いと思います。たとえばあやしげな壺をあの手この手で売りつけるのと、これはこれこれこういう作品で、と説明して売るのとは、よく似たことだと思います。
だから、いまおかんには、僕はよい詐欺をしている、と伝えています。蔵屋:金本位制というものがあります。金はそのもの自体に価値がある。その価値は何グラムでこれぐらい、と決まっているから、それを基準にして貨幣経済を成り立たせる制度です。ところが兌換紙幣というのは、単なる紙っぺらで、もの自体に価値はありません。ただ、社会が「この紙にはこれぐらいの価値があるよ」と約束してくれているだけです。
アートにもこれと似たようなところがありますよね。それそのものの価値が金のように決まっているわけではない。しかし社会が「価値がある」と見なせば、そこにそれだけの価値が生じる。このしくみを扱ったのが、赤瀬川原平さんの「千円札」のシリーズだと思います。
お母さんは、要は赤瀬川さんと同じ視点からアートのしくみに疑義を呈しているわけで、アートにとって本質的なことをずばり言い当てていると思います。
しかし、このエピソードひとつとっても、松田さんが育った環境とアートは相当に遠いものだということがわかります。だからこそ、最初に述べられたように、尼崎の暮らしの中で育んできたご自分の「美意識」と、アートの世界とのズレを表す作品を作ってこられたのだと思います。
松田さんは、そもそもどうやってアートに出会い、アーティストになったのでしょうか。松田:僕は高校を留年というかダブったりしているのですが、先に卒業して上京していた友人のところ、当時は5人くらいで住んでいたところへ、まず転がり込みました。人生で一度は東京に住んでみたかったというのがその理由です。
しばらくそんな友人たちと共同生活を送っていたら、その中にひとり、夢を持つやつが出てきたんです。そこから、お前の夢は何だ、夢を持ってないやつはだめなやつだ、となり、僕は追い込まれてつい「映画監督になりたい」と言いました。
あとは友だちが頼んでもないのにパンフレットなどを持ってきてくれて、3日後ぐらいにはもう美術予備校に行きました。映画監督になりたいと相談しているのに、受付の人は、君は画家に向いている、と言う。絵なんて描いたこともなかったのに、体験授業を受けると、講師の人がまた「いい線描くね」とほめてくれる。で、調子にのって予備校に入る。僕は流されやすいので、入ってしばらく経ったらもう「画家になりたい」と言っていました(笑)。まあ予備校の人がうまくのせてくれたんですね。
予備校に入る前には、貧乏なんですが行ける学校はありますか、と講師に聞きました。すると、国立で東京藝術大学というのがある、授業料は年間30万ぐらいだよ、と言われました。それなら働けばなんとかなる、と思いました。僕は高校も働きながら自費で通ったので。まあそれも、《奴隷の椅子》冒頭のおかんのセリフではないですが、僕の地域ではめずらしいことではありませんでした。
そこから大学に入るまでには長く時間もかかりましたが、がんばれたのは、自分が好きなサブカルチャーとして受容していたものが、実はアートにつながっていたんだと気づいて、おもしろくなったということもあります。たとえばデヴィッド・リンチ監督の映画や、CDジャケットから知ったマイク・ケリーの作品など。日本人では、絵を雑誌で見て衝撃を受けた、会田誠さんですね。
しかし、夢があると言い出した友だち、予備校の受付のひと、体験授業の講師のひと、彼らがいなければ僕はアートに出会うことはありませんでした。アートを始めたいと思うこともなく、思っても始め方がわかりませんでした。蔵屋:インドの経済学者、哲学者で、アマルティア・センというひとの「ケイパビリティ」という概念があります。不平等の解消についての理論です。
たとえば、平等な世の中にしようといったときに、ではすべてのひとに同じぐらいの財産があればいいのかというと、そうではない。なぜならひとが求めるものは多様で、お金だけではないからです。
また、楽しく生きているかどうか、みたいな満足度で平等を測るのも十分ではない。なぜなら、過酷な状況に置かれている人であっても、無駄な夢を見ずにあきらめたり、そこで生きていくなりの楽しみを見出したりして、精神の平穏を保っている可能性があるからです。
ではなにを平等の指標とすればよいのかというと、そのひとが持っている自由の幅なんだ、とセンは言うのです。
その自由は何によって獲得できるのか。センの言葉でいうと、それは「機能」をたくさん持つことによってです。わかりにくい用語ですが、要は、誰もが可能な限りたくさんの選択肢を持つことによって、ということかと思います。
あたたかい場所で眠れるとか、必要な栄養が取れるとかいった基本的な生存の条件についてのものから、宇宙飛行士になりたい、ピアニストになりたい、といった将来の夢についてのものまで、こうありたい、これをやりたい、やりたければ手段が得られる、このような状態にみんながいるかどうかを測ることが平等の指標になる、とセンは考えるのです。
いま松田さんは、きっかけがなければアートを始めたいと思うことも、始める方法を知ることもなかっただろう、と言いました。お母さんも作品の中で、高校を卒業してホステスとして働き始めた、まわりがみなそうだったので専門学校や大学への進学は考えたこともなかった、と言っています。また、客室乗務員になってみたかった、なり方もわからなかったけれど、とも言いますね。そこから、自分の人生に後悔はないが、自分で選んだ人生ではなかった、と、非常に重いお母さんの言葉が出てきます。これは、お母さんが持っていた選択肢が充分ではなかった、ということを意味しているのだと思います。松田:常に作品で扱うわけではないですが、貧困は、いちばんなくなってほしいと思っているものです。同時に、世の中がほんとうに貧困をなくしたいと思っているのか、ずっと疑問に思って来ました。僕が持っている、一生消えない怒りみたいなものは、そこから来ていると思います。つまり、こんなにおかしいことが起きているのに、みんなおかしいと思っていないじゃないか、「持たざるひと」ではない「持っているひと」はそれで幸せだから、このままでいいと思っているんじゃないか、ということです。僕は、言葉にはできないものの、10歳ぐらいからもう、貧困から来る生き方の制限みたいなものをおかしいと思っていたのに。
蔵屋:松田さんは、わずか10歳で、どうしておかしいと気づくことができたんでしょうか。つまり、お母さんが言うように、「まわりがみなそうだったので疑問を持ちませんでした」というのが通常の状態だとしたら、怒りというものは、自分と他人とがちがうぞ、と知るきっかけを得なければ生まれてこないものだと思います。
松田:そういう意味では、尼崎って、最初に述べたとおり、周囲が高級住宅地なんですよ。だから自転車に乗れるようになれば、自分の住む地域がいかに特殊かということに気づきます。見るだけでなく、色んな外からの言葉や態度にも遭遇しますし。そんな風にして出来た怒りは、ダウンタウンにも感じます。同時に、世の中に対する「あきらめ」のようなものも感じますね。僕にも両方ある。
なぜこんなに違うんだろう。生まれたときから豪邸に住んでいるひとと、ウサギ小屋みたいな家に住んでいるひとと、何がちがうんだろう。うちのおかんは尼崎にはめずらしい働き者です。それなのに、懸命に働いてもこの差が埋まらないのはなぜなんだろう。何がそうさせているんだろう。漠然と、そんなことは考えていたと思います。蔵屋:なるほど。自転車が、他の選択肢を持つひとびとの存在を教えてくれたんですね。
松田:選択肢を持つひとびとを知ったところで、自分がその選択肢を持てるとはまったく思いませんでした。まあそれこそ、あきらめていたんですね。それに、怒りやあきらめを抱えていても、楽しく生きるのに、「僕ら」は長けていましたから。しかしのちになって、僕は思いがけない偶然からアートを知り、この構造からいわば「うっかり脱出」をしたわけです。
一方で不思議なもので、郷愁みたいなものもある。いつか戻ろうと思っていましたし。そういうことも含めて、構造的なものにのまれる/のまれない、ということを考えます。
また、その構造に10代ぐらいで気づいておかないと、実際に脱出するのはむずかしいとも感じます。おかしいなと思いながら、尼崎の倫理や論理を受け入れて、ずっとそこで生きていく。尼崎では悪いことをするひとも多く、ルールの設定がちがうんです。自分の人生を変えるために悪事すらいとわないひとを、僕はたくさん知っていますし、驚きません。蔵屋:この展覧会全体に共通するテーマなんですが、想像力という問題が重要なのではないかと感じました。つまり、自分の住む場所はおかしい、他の選択肢がある、と気づくための想像力を持たされているかどうか、ということです。
松田:僕が貧困の構造から抜け出したのは、先ほども言ったように「うっかり」がきっかけです。僕はいま、そんなにお金持ちではないし、収入的には相対的貧困の枠に入るのかもしれません。しかし、アーティストという選択肢を得て、東京に地盤を作ろうと思い、尼崎に帰ろうと考えなくなったころから、尼崎の構造から脱出したんだと思います。
蔵屋:松田さんが先ほど言われた、みんな貧困をなくそうと本気で思っていないじゃないか、という問題に戻ります。わたしにはそれは、思っていないというより、知らないので思うこともできない、という事態のように思えます。想像力の問題として言えば、まったく知らないものは想像もできないわけです。
たとえば、松田さんのお母さんにアートが想像できなかったように、松田さんや尼崎の姿が見えていないひとには、貧困について想像することもできないのではないでしょうか。松田:貧困を生む構造に対する怒りは一生消えないけれど、近年、直接的に怒ったりするのではなく、うまく呪う方法はないかと考えています。実際に貧困と関わらなくても、そのことを見るひとに考えさせる。これを僕は「呪い」と呼んでいます。呪いらしい呪いにすると、見るひとはいやがりますが、一見やさしそうなもので呪いをかけることはできる。その意味で、《奴隷の椅子》はとてもうまく行ったと思います。ぜんぜん知らない人生を体験して、その先ずっと考えてしまうしくみをつくることができました。
蔵屋:最初の方で松田さんは、《奴隷の椅子》の映像を、お母さん個人ではなく、世界中にある貧困という構造の中にいるひとたちの姿にしたいとおっしゃいました。たとえば、松田さんとお母さんはふだん関西弁を使われると思いますが、映像の中のセリフは、標準語に寄せた関西弁、というような、どこの地域とも特定できないあいまいな言葉で語られますね。
松田:そうですね。映像の中では、この人物がほんとうにいるのかいないのかわからない、それぐらいの抽象度でいいのではないかと思いました。
その代わりに、この椅子がほんものなんです。蔵屋:おっしゃるとおり、この作品の肝は、抽象度の高い映像と、実物の椅子がセットになっているところですね。実際にこの椅子に座って作品を見ていると、お尻から生々しくリアルさが伝わってきます。
松田:この椅子は、おかんが営んでいた「スナック太平洋」で実際に使われていたものです。店は僕が中学生ぐらいのときに始めたものなので、もう30年近くが経っています。ほんとうはもう1脚、常連さんにあげてしまった同じ椅子があって、その3脚で1卓をつくり、加えてカウンターが3席という、とても小さな店でした。子どものころは、椅子の整理整頓が僕ら兄弟の仕事でした。
コロナ禍で店を閉めるということになって、「あ、『太平洋の椅子』を使おう」と思ったとき、この椅子が世界中にあるような気がしました。蔵屋:椅子がリアルなので、そこを錨にして、映像の抽象度をどんどんあげていけるわけですね。
松田:写真ではなく棒人間を使ってもいいかな、と考えたぐらいです。代わりにこの椅子があることで、いい作品になると確信しました。椅子としてもおもしろい運命をたどっていると思うんですよ。1脚は常連さんにもらわれて尼崎に残り続け、あとのふたつは作品となってここにある。こういうことは、アートでないと起こせないと思います。
蔵屋:松田さんはよく「アマの椅子もびっくりしていると思います」と冗談で言いますね。
松田:最近は僕の家族も、ここに何かマジックがあるらしいということに気づいています。むかし僕らが整頓した椅子が、いま美術品となっていることを、なにか「オモロいこと」くらいには思っているようです。
蔵屋:松田さんの話をうかがっていると、松田さんがほんとうにアートを信じていると感じます。
わたしなどは長く業界にいすぎて、貧困にアート?そんなこと言うヒマがあったら住まいと食事を保障したほうがいい、などと、無力感からひねくれてしまうときがあります。しかしアートの役割を、構造の外を見せる、想像させる、と捉えることができれば、自分の仕事にも意味があると自信が持てます。松田:そう言われると恥ずかしいですが、僕はアートに救われました。アートで人生が変わったと思っています。
よく、むかしから絵がうまかったんでしょう、とか、松田さんだからできたんでしょう、と言われます。しかしそうではないんです。
逆に、アート関係者がアートのちからを信じない、というような発言をしているのを聞くと、ほんとうにびっくりします。蔵屋:そうですね。わたしも含め、アート関係者は、アートがあしたあたたかいご飯を食べる役に立つのか、と考えすぎてしまいます。そうではなく、アートができるのは、別の可能性を見せることなんですね。
この椅子自体は、古道具屋さんに売ったらわずかな価値にしかならないでしょう。でも、見る者に別の可能性を見せてくれるから、この椅子は、中古の家具という価値を超えて、別の価値体系の中に入って行っているんですよね。松田:ドイツ出身の思想家、ハンナ・アーレントに「パーリア(pariah)」という概念があります。のけ者、追放された者、棄民という意味です。もちろんアーレントが論じているのはユダヤ人のことなんですが、これは「僕ら」のことだな、と思いました。一般の社会の価値観によってキュレーションされた、たとえば現在のテレビなどには、尼崎の新地も、それにまつわる人たちも出てこない。僕らの姿は見えない。だからこそ僕がやらなければ、という使命感があります。
若い人に、「いまの日本に売春街ってあるんですか」なんて言われたりすると、「知らないことを知らない」という状態をつくってはいけないと感じます。ふつうの会話には売春街の話なんてまず出てこないでしょう。でも《奴隷の椅子》などを見て「知らなかったです」と言ってもらえれば、会話になるじゃないですか。それが先ほど言った「やさしい呪い」なんです。
あと、批評家の黒嵜想[くろさき・そう]さんと金沢でトークをしたときに、「スラムからの福祉」という言葉をもらいました。福祉がトップダウンでなされるのではなく、弱者と思われているひとたちからちからを与える。そういうことができるのなら、それはスラムからの福祉ですね、と言われたんです。最近それをすごく意識しますね。蔵屋:わたしはこの《奴隷の椅子》は名作だと思っています。選択肢の問題をこれほどはっきり教えてくれる作品は他にはありません。また、この作品を見ることで、これまで松田さんがつくってきた、過激な笑いを見せる作品が何をしようとしていたのか、少しですが理解できるような気がします。ひどいことがあって、笑わなければおかしくなる。そんな状況で育って「美意識」を育み、しかしそれは通常アートに関わるひとたちとはだいぶズレている。そのズレをずっと見せようとしていたんだな、と。
松田:そうですね。20代のときは特に呪い方が下手というか、「呪っとんじゃい、見んかい、何お高くとまっとんじゃい」とか、最初に話した、条例できれいにする街と恥部を引き受けた街、芦屋と尼崎のような関係から、「なにを隠そうとしとんじゃい、おれはそこで生まれとんじゃい」……みたいな怒りがダイレクトに表れていました。東京でも、似たような関係を見つけるたびに怒りを増して(笑)。でも、それはそれでやってよかったと思います。一度やったから、ああ、これはいくらやっても呪えないな、ということもわかり、やり方を変えようといろいろ考えるようになりました。
《奴隷の椅子》でほんとうにひと段落という気がします。今後、通底する美意識は、もうセットされたものだから通底し続けると思いますが、スラムということを説明し続けるだけではないことができる気がします。蔵屋:いまさらですが、松田さんがこのトークの中でずっと使っている「美意識」という言葉は、フランスの社会学者、ピエール・ブルデューが言う「ハビトゥス」のようなものなのかな、とあらためて思いました。生まれ育った環境で身につけた、無意識の行動パターンとか、身体にしみついた社会的な性向のことです。
松田:そうですね。でも、ほんとうはそれはみんなバラバラのはずです。それをバラバラのまま、どうていねいに伝えられるか。とてもむずかしい問題ですが、関心があります。
そのために、ひとりで制作するだけでなく、コラボレーションというか、あきらかに属性や美意識の違う他者とのインスタントなコレクティブなど、いろいろたくらみ中です。蔵屋:これでほぼ1時間ですね。松田さん、どうもありがとうございました。
文責:蔵屋美香/松田修
松田修(まつだ・おさむ)
https://www.mujin-to.com/artist/matsuda/
松田修は映像や立体、ドローイングなどさまざまなメディアを用いた表現で、社会に潜む問題や現象、風俗をモチーフにして「生」や「死」といった普遍的なテーマに取り組んでいる。ときには、ひきこもりやニートといった、世間から否定的な眼差しを向けられる存在や、ゲームの中での戦いや死など、繰り返し再生されるヴァーチャルな世界での生命観なども松田の作品の重要なテーマとなっている。 -
荒木悠 個展「 SWEET ROOM」
2022年4月30日 – 8月1日
会場:RC HOTEL 京都八坂、京都 -
加藤翼 グループ展「国立国際美術館コレクション 現代アートの100年」
2022年4月2日(土) – 5月29日(日)
会場:広島県立美術館 -
加藤翼 グループ展「Spinning East Asia Series II: A Net (Dis)entangled」
2022年4月2日 – 8月7日
会場:CHAT、香港 -
八谷和彦 特別展「M-02JとHK1」~無尾翼機に魅せられて~
2022年4月27日(水) – 5月30日(月)
会場:あいち航空ミュージアム 1階 航空メッセプラザスペシャルトーク
2022年5月5日(木・祝)
11:00〜12:00「M-02JとHK1 〜無尾翼機に魅せられて〜」
13:30〜14:30「OpenSky クロニクル 〜模型から米国フライトまで〜」
*先着40名程度 -
アーカイブ:「すみっこCRASH☆」トーク(友政麻理子 × 蔵屋美香)
トークイベントのアーカイブを公開いたしました。
参加できなかった方も、ぜひご覧ください。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
すみっこCRASH☆ アーティスト・トーク
友政麻理子(アーティスト)× 蔵屋美香(本展キュレーター / 横浜美術館館長)日時:2022年3月19日(土)12:30-13:30
会場:無人島プロダクションーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
蔵屋美香:ではトークを始めます。まずは友政さんから、出品作の《お父さんと食事(ブルキナファソ)》(2014年)について、基本的なところを教えてください。
友政麻理子:これは、大学時代の2000年に始まった〈お父さんと食事〉というシリーズの作品です。初対面の男性と、――あ、男性でなくてもいいんですが、これまでは男性でした――食事の間だけお父さんと娘の関係になるよう努力する、という約束をして、ご飯を食べます。これまで金沢(2008)、いわき(2012)、台北(2013)、ブルキナファソ(2014)、新潟(2015)、東京の足立区(同)、松本(2017)と各地で制作してきました。ブルキナファソ編は約50分で、ほぼノーカットです。
蔵屋:そもそもなぜブルキナファソだったんですか?
友政:ブルキナファソは西アフリカの、マリの南東にある国です。“Between art and science 2014” (IRFAK OASIS、ブルキナファソ/ナポリ科学博物館、イタリア) という企画で、わたしもレジデンスをすることになりました。しかし、わたしが滞在した村ではアートという言葉が日本国内のようには通じませんでした。そこで、自分がこの場所で無理なくできることのひとつとして〈お父さんと食事〉が浮かびました。
《お父さんと食事(ブルキナファソ)》2014年‐ ©︎Mariko Tomomasa, Courtesy of Talion Gallery蔵屋:このお父さんはどうやって探したんですか。
友政:ふだんは知らない人を紹介してもらうんですが、いまいったような事情で、この村にはパフォーマンスをしてくれる人などまったく見つかりませんでした。結局、わたしに住まいを提供してくれたこの男性になりました。しかし到着してすぐなのと、言葉がほとんどわからないのとで、知らない人に等しい感じでした。
蔵屋:ブルキナファソでは何語を使うんですか。
友政:モシ語、ディウラ語、グルマンチェ語、他にも言語がたくさんあるところでした。かつてフランスが統治していたので公用語はフランス語です。このお父さんはフランス語ができて、モシ語、ディウラ語、グルマンチェ語、あと片言の英語もしゃべる方でした。
蔵屋:基本情報がわかったところで、さらに掘り下げていきましょう。
口火を切る意味で、わたしがこの作品を見ておもしろいなと思った、おもに形式的な点をお話しますね。
まず撮影の仕方です。カメラの使い方としては非常にシンプルですよね。二人を正面から撮るカメラ、友政さんだけを撮るカメラ、お父さんだけを撮るカメラの計3台を、据えっぱなしの固定にしています。構図的には手前のテーブルの端が画面から切れているので、見る人は、まるで自分ももう一人のお客さんとして一緒にテーブルを囲んでいるような気持ちになります。
次に音です。二人の会話だけをクリアにひろうのではなく、鳥の声や周囲の人の笑い声など、生活音をぜんぶ入れています。技術的には会話だけを録ることもむずかしくはないので、おそらくこれは、その場の雰囲気を丸ごと伝えるための意図的なものですよね。
あとは逆光です。奥に大きな窓があるので、二人の姿やテーブル上の食事は逆光で黒く沈んでしまっています。そのため、二人が食べているものもはっきりとは見えません。しかし、食事を見せたければ、照明をあててそこだけアップの別カットを入れればいいわけですから、これも意図的な選択ですよね。おそらく、見てほしいのはそこではない、ということかと思います。
大体こんなところです。
さて、友政さんにマイクを戻して、そもそもなぜ〈お父さんと食事〉のシリーズが生まれたのか、というあたりからうかがっていきましょう。友政:まず前提として、わたしには一緒に暮らしている父親がいません。だから、自分の中に父性という要素はまったくないと思っていました。
しかし、まだ学生だった2000年ごろだと思いますが、テレビであるお父さんたちの記者会見を目にしました。子どもが殺されるというとても悲惨な事件があって、今だったらありえないと思いますが、記者がお父さんたちに、いまの気持ちはどうですか、とか、子どもたちに何を伝えたいですか、といった質問をしていました。ほんとうにひどい会見だったと思いますが、その賛否はさておき、そのときわたしはなぜか、お父さんの気持ちも、このお父さんに思いをかけられている娘の気持ちもわかる、共感できる、と感じたんです。それがとても不思議でした。わたしの中に父がいるのはなぜだ?とか、がんばったら父にも娘にもなれるのか?とか、いろいろ考えました。自分の中にもしも「父的なもの」や「自分のものとは言い切れないもの」という謎のゾーンがあるのなら、他の人にもそれはあるのだろうか。もしあるのなら、そこを通してお互いコミュニケーションをとることはできないだろうか。こんなことからこのシリーズを始めることになりました。
食事を選んだのは、ストレートですが、食事というものが何かを交換するのにいちばんいいし、何より家族らしいと思えたからです。蔵屋:不思議なお話ですね。たとえばドラマなどで父と娘を見て、いいな、と思うのではなく、かなり特殊な事例によってこの反応が起こったのはなぜなんでしょう。
友政:その後、ドラマなどでも、あ、これだ、と思うシーンに反応していたことに気がつきました。共通するのは、そこにはいない相手に対して語りかけている、という点でした。また、そこにはいない相手に対して語りかけるために、語る自分自身も少し形を変えている。
お父さんたちの会見も、もう会えない子どもたちに向かって何かを言っている、というところが大きかったのだと思います。蔵屋:なるほど。そこにはいない存在に対してもコミュニケーションを取る方法はある、という姿を見たということでしょうか。
友政:そうですね。それがわたしにとっていちばん響きやすかったということだと思います。
蔵屋:最初の《お父さんと食事》(2000)について教えていただけますか。
友政:最初はお父さんを募集するということも思いつかず、誰に頼んでいいのかもわからなくて、結局知り合いに紹介してもらいました。
場所は自分のアパートで、二間のうち、手前の部屋にお客さんを入れ、奥に父と娘でした。奥の部屋には大きな窓があって、映像はたまたま記録のために撮っていただけだったのですが、あとで見たら窓のおかげで逆光になっていました。その結果、そこにいるのは誰なのか、何を食べているのか、ということがもやっとして、匿名性が生まれていました。これはいいなと思い、結局これがわたしの2本目の映像作品になりました。
このときはお父さんが6人、1週間日替わりで、毎日カレーを食べました。6人分を編集すると、お父さんのシルエットがどんどん変化していく、という効果が生じました。蔵屋:お父さんたちは、実際にはどんな感じでしたか。
友政:そのときはわたしも、思い出を話すとか、家族っぽいシチュエーションを作ろうとがんばったので、なんだか演劇風になりました。まさに演劇風な感じで目の前にお客さんがいるので、お父さんも、おもしろい話を展開するなどサービスをしてくれました。なんだか変だな、と思いながら、しかし、公の場でしろうと二人がプライベートなことをさらけ出している感じ自体はおもしろかったです。
蔵屋:その次が《お父さんと食事(金沢)》(2008)と《お父さんと食事(いわき)》(2012)ですね。昨日金沢編を見直してみたんですが、ブルキナファソ編とまったくちがっていて驚きました。ブルキナファソ編同様、ノーカット版もあるそうですが、わたしが見直したのは、最初の《お父さんと食事》のときのように映像を短く切って、お父さんがどんどん入れ替わりながら食事が進行する、というコラージュ的な編集がなされたバージョンでした。
また、これも最初の作品のように金沢編ではお父さんたちが勝手にいろいろな設定を作っている点も、ブルキナファソとは大きく異なりました。友政:そうですね。いきなりお兄ちゃんの話が出たり、あのお見合い、なんで断ったんだ?と言われて、あ、お見合いがあったのね、とあわてて合わせたり、ほんとうにいろいろな設定がお父さんごとにありました。
蔵屋:友政さんがお父さんの無茶ぶりに一生懸命ついていっている感じでしたね。
友政:やっているときは演劇っぽいな、と思っていたんですが、久しぶりに見直すと、お父さんたちには実はちゃんと伝えたいことがあったんだ、とあらためてわかりました。
蔵屋:金沢編のお父さんたちにはほんものの娘さんはいらっしゃるんですか。
友政:多くの方にはいましたね。
蔵屋:なんであのお見合いを断ったんだ?と聞きながら、ほんとうはお父さんもあの人はいやだったんだよ、なんて言ったりして、もしかして、ほんとうの娘さんに言えなかったことを友政さんに言っているのかな、という印象を受けました。
友政:ウソの中に、ふだん言えない小さなことが隠されていたという気はします。時が経って、自分の年齢があがるほど、あ、あれは、と見えてくるのはおもしろいですね。
蔵屋:そんなお父さんたちに対して、友政さんの方はどうだったんですか。
友政:あの場にいるとき、実はものすごく緊張しているんですよ。無音の時間など、ほんとうに死を感じるぐらい長くて。
たとえば、わたしはいまここにアーティストとして座っていて、帰ったら母の娘で、バイト先では講師で、といろいろな関係性の中で自分を作っていますよね。でもお父さんの前にいるときは、娘ということだけが決まっている。それも相手の協力なしだと単なる思い込みに終わってしまう。つまり、ここでうまく父と娘という関係が成立しなかったら、アイデンティティが崩壊してしまうんです。だから、これをやっているときはめちゃくちゃこわいんですよ。たぶんお父さんの方もそうだと思うので、二人で必死にバランスをとって綱渡りをしている感じです。たとえばお見合いの話に対して、わたしは「娘」としてなんと答えるべきか、ほんとうにひりひりしています。お兄ちゃんが、とかおばさんが、とか言われたときに、二人の足元のロープが揺れる。そこで落ちてしまうとたいへんなので、必死に「ああ、おばさんね」と返事をするわけです。映像を見ると笑ってしまうかもしれませんが。蔵屋:たしかに、二人で協力してアイデンティティをゼロから作りましょう、という作業ですものね。緊張のあまり前日寝ていないこともある、といつかおっしゃっていましたが、それはこういう意味だったんですね。
ただ、この展覧会のテーマのひとつでもあるんですが、人間って底を打ったときには笑えるんですよ。だから見る人は、友政さんがいちばん死を感じているところでいちばん笑っているかもしれませんね。友政:ぜひ笑ってほしいです(笑)
蔵屋:笑いと死、まあエロスとタナトスなのかもしれませんが、それらはやはり表裏一体のものなんだなと感じます。
しかし、非常にシンプルな枠組みにもかかわらず、〈お父さんと食事〉には驚くほどいろいろなテーマが詰まっていて、あらためて驚きます。たとえば「疑似家族」または「拡張家族」です。これは、血縁ではない人が共に生きていくという考え方のことです。近年はLGBTQの問題などとともにさかんに議論されていますが、2014年の段階で作品として取り上げる人は、少なくとも日本にはまだ少なかったと思います。
ちょっとブルキナファソ編に話を戻すと、実はこのお父さんも、疑似家族のようなものを作っているんですよね。友政:この方の本業は、首都にあるワガドゥグー大学の先生です。この村はそこから長距離バスなどを乗り継いで1日ぐらいのところにあります。村には6つほどの部族がいて、それぞれの仕事を分担し、大体が金銭を使わず物々交換をして、村の中だけで完結する昔ながらの生活をしています。公用語であるフランス語を話せる人はお父さん以外にはなく、モシ語やディウラ語には文字がないので、村民は誰も読み書きをしません。
お父さんは1年の半分ほどを村で過ごすようです。農園を営んで有機農法の研究をするかたわら、小さな図書館を作って、必要な人には文字を教えています。はっきりは言いませんが、おそらくは身寄りのない子どもたちを何人か引き取って、勉強を教えたり、仕事を与えたりもしています。
また、疑似家族、拡大家族ということで言うと、ちょっとわたしには扱いきれないぐらい大きな話になってしまうのですが、ブルキナファソには、多くの人が文字を書かないことや、旧植民地であったことなど、大きな問題がいくつもあります。そこで、国のあり方自体を見直さなければならなくなっています。たとえば、フランス語の読み書きができないといろいろなところでだまされてしまうので、学習は進めなければならない。しかしそれまでの暮らしとのバランスもとらなくてはならない。どういう父になりたいのか、とか、どういう娘でいたいのか、という問いを拡大したものが、国家規模で日々問題になっているんです。蔵屋:なるほど、では友政さんとお父さんがどんな父と娘になるか、という一番小さい問題の輪の外側に、国家としてのブルキナファソはどうありたいのか、というとても大きな輪があるんですね。そして、たぶんその中間あたりに、疑似家族と暮らすお父さんの農園があるのかもしれませんね。
また、有機農法ということで言えば、このお父さんは、さすがに専門家だけあって、食の安全性への意識がとても高いですよね。レストランで食べると体調を崩すとか、友政さんの体調がよくなったのは農園の野菜を食べたからだとか、食に関する話題がかなり続きます。疑似家族とともに、食の問題もこれまた、いまではさかんに議論されているテーマです。友政:そうですね。このお父さんはもちろんそこにとても関心が高い方でしたが、それ以外のお父さんでも、食はけっこう重要な話題になります。なにせ目の前にあるので、互いにつかむための重要ないのち綱のひとつなんです。
蔵屋:ブルキナファソ編では、わかりやすいコミュニケーション・ツールとして昆虫食が出てきますね。
友政:これはシートゥムといって、毛虫を乾かして、一度水でもどしてからもう一度焼いたものです。イカを10回ぐらい噛んだあとの味がして、ふつうにおいしいんです。だからわたしはふだん平気で食べていたんですが、このときはお父さんがきゃあきゃあ言ってほしそうだったので、娘としてきゃあきゃあ言いました(笑)。これもコミュニケーションのためのいのち綱のひとつです。
あと、この時は鳥を焼いてくれています。村ではとても貴重なものなので、あ、なけなしの鳥をさばいてくれたんだ!と、はーっとなりました。蔵屋:ブルキナファソ編では、食事が進む中で、ゆっくりと時間をかけて二人が互いのことを知るプロセスをたどることができます。たとえば、お父さんはお母さんを早くに亡くし、おばあさんに育てられたということが途中でわかります。おまけにお父さん自身は離婚していて、フランスに元妻と子どもさんもいて、でも今は農園の仲間と暮らす道を選んでいることもわかってきます。一方、ああ、君(友政さん)はお母さんひとりに育てられたんだね、と、少しずつお互いの境遇が明らかになっていきます。
ほぼノーカットとは、わたしたち見る者も、実際に食事にかかった時間を画面の前で同じだけ共に過ごすということです。これが金沢編や台北編の編集版のように短く切ってシャッフルされていたら、印象はだいぶ変わったでしょう。その意味で、ブルキナファソ編には50分という長尺が必然だったのだなと思います。友政:このお父さんは、父と娘という設定をあまり気にせず、ナチュラルにおしゃべりをしています。だからこそ、素の彼自身やわたし自身の情報が少しずつ明らかになるわけです。
しかし、わたしは途中までお父さんが設定を作ってくれないことにとてもビビっていました。あ、ヤバい、この人はほんとうにわたしを娘として見てくれるんだろうか、父と娘というかたちを作ることができるんだろうか、と。ですから、この回は特に、血のつながりもない、一緒に住んだこともない、それでも父と娘になる努力をするとはどういうことなのか、という試みを必死でやっていたと思います。蔵屋:もうひとつ重要なものとして、言語の問題がありますよね。たとえば、金沢編はお互い日本語でしゃべっているので、言語によってお兄ちゃんが、とか、おばさんが、という設定を共に作れます。しかしブルキナファソ編の場合、二人の共通語は片言の英語だけなので、おそらく言語以外のコミュニケーションも使って関係を作らなければならない。
その点、台湾やブルキナファソなど、基本言葉が通じない海外に場を移してみて感じたことを教えていただけますか。友政:海外での制作は《お父さんと食事(台湾)》(2013)が初めてでした。最初は日本語が話せるお父さんばかりを紹介されました。
蔵屋:台湾はかつて日本によって統治されていたので、ある世代以上には流ちょうな日本語を話す人たちがいるんですよね。
友政:はい。紹介する方も、家族なんだから言葉が通じた方がいいだろうと配慮したようで、それはそれでおもしろかったんですが、やがて日本語人脈が尽きたときに、紹介者である女性が、個人的にとても心にかけているという男性を紹介してくれたんです。
このおじいちゃんはフーベーベ(フーおじさん)と呼ばれていて、第二次世界大戦後、中国本土から軍人として渡ってきて、そのまま台湾に残った人でした。わたしは台北のトレジャーヒル・アーティストヴィレッジ(寶藏巖國際藝術村)というところでレジデンスをしていたんですが、そこはもともとそうした軍人が集まって住む特殊な村だったんです。蔵屋:なるほど。戦後、共産軍に中国本土を追われた国民軍の軍人やその家族が大量に台湾に渡ってきたんですよね。その人たちを収容するために急遽作られた村は「眷村」といい、今でも台湾各地に残っています。いくつかはすでに壊され、寶藏巖のように文化ゾーンとして再生されたところもあります。
友政:はい。この人はかなりなまりのきつい地方の出身でした。ご本人は歌を歌ったりして楽しそうにしているんですが、この人のパーソナリティなんでしょうか、なまりのため言葉があまり通じないまま、何十年も過ごしてきたんです。
彼だったらいけるかも、と言われ、実際にやってみると、わたしは中国語がわからないし、彼は日本語も英語もできず、ほんとうに何もわかりませんでした。でもこの回が、何というか、すごく…〈お父さんと食事〉が目指しいていたものに一歩踏み出したという実感があって。言語が通じないから何の設定もできないところでどう父と娘の関係性を結べるか、という地平が見えて、衝撃的でした。蔵屋:言語によるコミュニケーションから出発したけれど、海外に場を移したことで、非言語的なコミュニケーションの中にほんとうに目指すものがあったと感じられた、ということですね。
友政:そうですね。また、これをやってみたことで、以前の作品でも言語以外の要素がどれだけ大きかったかということを発見しました。たとえ日本語でやりとりをしていても、言語以外のコミュニケーションは行われているし、むしろ言語以外のコミュニケーションをするために言語のやりとりをしていたのかな、とさえ思えました。
たとえばホタルが一緒に光るような、またセミが一緒に鳴くような、そうした言語ではない共振の不思議な瞬間はあるのではないかと思えました。蔵屋:ふだんは見えないそうした共振の瞬間を取り出すためにこそ、〈お父さんと食事〉というしかけがあるのかもしれないですね。この言語/非言語という問題にかかわるものとして、ブルキナファソ編には、途中、お互い自分の言語で話しましょう、という時間帯が設けられています。
友政:台北編の後からずっと考えていたのですが、ほんとうに言葉が通じない状態でコミュニケーションをしてみたらどうなるか、ということをきちんとやってみようと思ったんです。見る人にもその状態を感じてほしいので、この部分だけ字幕もなくしています。そこは見る人に響きをキャッチしてほしいと思っています。
で、やってみると、この方がぐっと父と娘の間合いが詰まるんです。逃げ場がないんですよ。
たとえば途中まで使っている片言の英語ですが、これはお父さんにとってもわたしにとっても母語でも何でもありません。だから英語をしゃべっているときは、お互いちょっと演技をしている感覚なんです。それを使い慣れた言葉にしたときに、ぐっと間合いが詰まります。もちろん落ちそうなんですよ。二人とも、近づきながら落ちそうなんです。そこで落ちないよう互いに必死でなんとかする、ということをやっているんです。蔵屋:そもそも誰かと食事をするということ自体、このコロナ禍で「濃厚接触」と言われたように、とんでもなく深いコミュニケーションの形態です。そこに生じさせるべきコミュニケーションの強度について、友政さんはずっと「間合い」という言葉を使っていますよね。
友政:実はこのブルキナファソ編を発表した個展のタイトルは、「近づきすぎてはいけない Have a meal with Father」というんです(TALION GALLERY、2015)。このタイトルは、マリ・ブルキナファソ周辺にある、カバと仲良くなろうとした女の子の話から取っています。仲良くなりすぎるといろいろよくないことが起こるぞ、という内容です。間合いの詰め方とは、要は距離の取り方です。近づき過ぎると落っこちてしまうかもしれないし、ちょうどいい間合いの詰め方をいつも探っています。
蔵屋:沈黙、片言、母語、非言語など、いろいろな操作によって間合いの詰め方、距離の測り方を探るというのが、この〈お父さんと食事〉シリーズの本質なんですね。
友政:距離を測り続ける状態に興味があるので、ゴールへ到達した後の風景は目指していないんです。でも万が一ゴールが来たら…わからないですね。
蔵屋:どういうときにゴールが来るんでしょうね。この先の制作の予定はあるんですか。
友政:作りたいと思っています。特にコロナ禍のいまの状態で、見知らぬ人と食事をするということがどうやったら可能か、オンラインなのか、いやそうではないのか、ずっと考えています。でも、いまだからやった方がいいと思っているんです。
3.11のあと、いわきで《お父さんと食事(いわき)》(2012)を制作したのですが、お父さんがものすごくしゃべるんです。あのときお父さんたちは、頼り甲斐のある父としての役割をふだんより強く求められていた。あるいは、圧倒的な現実の前で意味のある言動を要求されていた。そんな節があったように思います。
また、社会全体に当事者か否かという距離の問題があって、それはわたしとお父さんの間にもありました。特にいわきは福島の中でも茨城に近い県境にあり、そういう意味でも当事者か否かという問いのようなものがあると強く感じました。
そんな中で行った〈お父さんと食事〉です。何ができたというわけでもないんですが、娘としてやっておいてよかったと思えます。蔵屋:この展覧会は、もちろんコロナ禍の状況を踏まえて企画したものなんですが、そこには不思議と、第二次世界大戦、東日本大震災と原発事故、そして現在のウクライナ侵攻など、さまざまな「例外状態」の影が顔をのぞかせています。友政さんがブルキナファソ編を制作されたときも、実はアフリカではエボラ出血熱の感染が拡大していたんですよね。
いい作品って、そのとき意味が分からなくても、あとで世の中がその作品にふさわしい状態になったとき、あっと気が付くような要素が知らず知らずのうちに含まれているものです。疑似家族、感染症拡大や放射能汚染、その中で「濃厚接触」である食を巡ってさまざまに測られる距離。こうした問題が2014年の時点ですでに含まれているという点において、《お父さんと食事(ブルキナファソ)》、わたしは大変な名作だと思っているんです。友政:おお、ありがとうございます。
文責:蔵屋美香
展示風景「すみっこCRASH☆」2022友政麻理子(ともまさ・まりこ)
https://taliongallery.com/jp/artists/marikotomomasa/
コミュニケーションの過程をテーマに映像作品などを制作。主な個展に「窓映画館、カーテンの夢」(アートアクセスあだち 音まち千住の縁「千住・縁レジデンス」、2021年)、「美しい話」(TALION GALLERY、2019年)など。主なプロジェクトに「知らない路地の映画祭」(足立区、2016年‐)。 -
アーカイブ:「すみっこCRASH☆」トーク(小山渉 × 蔵屋美香)
トークイベントのアーカイブを公開いたしました。
参加できなかった方も、ぜひご覧ください。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
すみっこCRASH☆ アーティスト・トーク
小山渉(アーティスト)× 蔵屋美香(本展キュレーター / 横浜美術館館長)日時:2022年3月12日(土)12:30-13:30
会場:無人島プロダクションーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
蔵屋美香:本日はお越しいただきありがとうございます。トークを始めます。まずわたしから、この展覧会の成り立ちについてお話します。
だいぶ前から、わたしにはいくつか気になっている作品があり、いつか紹介のチャンスがあるといいなあと思っていました。
たとえば2011年の東日本大震災をはさんで500点以上が制作された折元立身さんのドローイング、〈ガイコツ〉(2010-2012)です。また、友政麻理子さんの《お父さんと食事(ブルキナファソ)》(2014)も8年前の制作です。このころアフリカではエボラ出血熱の感染が広がっていました。青山真也さんの映画「東京オリンピック2017都営霞ヶ丘アパート」(2021)は、展示の話とはまったく別に、冊子の編集にボランティアで携わらせてもらったというご縁でした。東京オリンピック・パラリンピック2020のために住まいを追われた人々の姿をとらえた作品です。小山さんの作品《最期の1分》(2020-)は、あとでお話しますが、とあるレジデンシープログラムの展示で偶然拝見したものでした。
無人島プロダクションさんからゲストキュレーションのお話をいただいて、これらを結んで何かテーマを立てられないかと考えていたときに、「すみっこCRASH☆」というふざけたタイトルを思いつきました。サンエックスの人気キャラクター、「すみっコぐらし」をもじったものです。
この2年のコロナ禍のような極端な状況においては、社会の中ですみっこに追いやられ、生存をおびやかされる人々が必ず生まれます。しかしまた、ふだんは不可視化されているその人たちの姿が一瞬可視化されるという状況も生じます。CRASHという英単語には、ぶつかって壊れる、という意味以外に、「鳴り響く」という意味があることもわかりました。すみっこたちが極限状況の中で、クラッシュしながら、でも声をあげる。冗談から思いついたタイトルですが、いま展覧会をやるなら、このタイトルには必然性があるのではないか、と思うようになりました。
そんな相談をしているうち、無人島さんから、そのテーマなら松田修さんの《奴隷の椅子》(2020)もぴったりではないか、とご教示をいただきました。貧困地区に生まれ育ったある女性が、自分の人生を語る作品です。
こうして出品作が集まって、展示が完成してみると、いくつかの共通するテーマがあることがわかりました。
ひとつは、血縁かどうかは別として「家族」という問題です。友政さんのテーマは、知らない人を食事の間だけお父さんとみなす、という疑似家族の問題を扱っています。松田さんの作品に登場する女性は、実は松田さんのお母さんです。折元さんは20年以上お母さんの介護をしながら、ほんの少しの自由時間に外に出て、これらの作品を描きました。そこにはガイコツの家族の姿がくり返し描かれています。小山さんの作品にも、お父さん、お母さん、お兄さんなど、後に残していく家族に何を伝えたいか、という問題や、死ぬときには誰と死ぬのか、という問題などが現れます。
もうひとつ共通するテーマは「食」です。友政さんの作品は、「食事の間だけ」という設定が重要です。一緒にものを食べるという親密な行為が、他人同士である「父娘」の距離を縮める決定的な要素となるからです。松田さんの作品にも、一番苦しい時期には1枚のハムを切って家族で分けた、という話が出てきます。折元さんも、ヘルパーさんがお母さんの食事の準備をしている間に、立ち飲み屋で飲食をしながら描かれました。画材として醤油も使われています。「霞ヶ丘アパート」には、住民に食を届ける食料品店主が住民に対して大きな影響力を持つさまが描かれています。また、展示台には暗☆闇香による模写というかたちで、韓国のアーティスト、イ・カンソの《ギャラリーの居酒屋》(1973年)に対するオマージュを出品しました。韓国の戒厳令下、無許可の集まりが禁じられる中で、ギャラリーに居酒屋の椅子とテーブルを持ち込み、飲食の場を提供した、という伝説のパフォーマンスに捧げる作品です。特に、コロナ禍において「濃厚接触」とみなされた食の持つ意味合いは、大きく変わったと感じています。
こうして、家族、食、そしてもうひとつ、「霞ヶ丘アパート」に代表される住居など、いずれも生存の最低限の保障にかかわる問題が展示を通じて浮かび上がってきました。小山さんの作品は、残念ながら食だけはぜんぜん関係ないのですが(笑)。
長くなりましたが、以上が展覧会全体の枠組みです。
では、小山さんの方から、今回の出品作について、なぜこのような作品を作るに至ったのか、どんなルールで撮影が行われるのか、といった点を教えていただけますか。小山渉:2年にわたり、ある地方のレジデンシープログラムに参加していました。1年目に、現地に2週間滞在してテーマを決めるという作業をしたのですが、そのとき不老不死ということを考えていて、地元に祠がある「八百比丘尼(はっぴゃくびくに、やおびくに)」を扱おうと思いました。八百比丘尼は、手塚治虫のマンガ『火の鳥』にも出てくる、人魚の肉などを食べて不老不死になった存在です。パンデミックのさなかで、死生観ということについてずっと考えていたんです。
そのうち、手塚が、自分が死ぬ時に『火の鳥』の最後の一コマを描いて作品が完成する、と言っていて、でも描けずに亡くなったことを知りました。
また、ちょうどレジデンシーの1年目が終わるときに、友だちが亡くなりました。彼は絵画を制作していたのですが、その葬儀で事務机の上にぞんざいに作品が置かれているのを見て、絶対いやだな、とか、彼だったらどうしたかったかな、とか、自分ならどうしたいかな、と自問しているうちに、じゃあぼくの葬儀について考えよう、と思いつきました。ほんとうに人はいつ死ぬかわからないな、と感じていました。
マンガではなく映像を作る自分は、1コマではなく1分だな、と思い、感情が揺れ動いたときに、不定期で、明日はもういないという中で、最期の言葉を1分で記録する、というこの作品になりました。いまは30分ぶんぐらいありますが、ライフワークとしてこの先もゆるゆると続けていく予定です。
感情が動いたときといっても、言葉を残すので、けっこう理性的であることが多いです。ほんとうに感情がたかぶったときには、ある程度咀嚼して、ちょっと時間を置いて撮ったりしています。
悲観的なばかりではなく、怒っているとか、他人が楽しんでいるのを見てすごくうれしくなってしまったとか、ここにはさまざまな感情が記録されています。それが最終的に自分の葬儀で流れたらおもしろいな、というか、自分が死ぬのがちょっと楽しみになるようなところがあります、ふふふふ。蔵屋:なぜそこで笑うんでしょうね(笑)
小山:いや、そういう人なんです(笑)
蔵屋:わたしがこの作品を拝見したのは、先ほど言ったように、レジデンシープログラムの展示のときでした。以前にもいくつか作品を拝見していたんですが、精神疾患の方たちをテーマにしたコラージュ作品など、なかなか重く激しいテーマであるにもかかわらず、非常にていねいに、美しく仕上げられていることに、正直にいうとちょっと引っ掛かりを感じていました。しかし《最期の1分》には生々しいものがあふれ出ていて、この人はこんな作品も作るんだなあ、という驚きがありました。
出品をお願いしてから何度も作品を見返したんですが、もうひとつおもしろかったのは、発言の立ち位置にいくつかのパターンがあるということでした。
たとえば、「これを見ているみんな、ぼくは死んじゃったけど」と、今の自分が未来の人たちに向けて語っているパターンがありますよね。
また、「これから死ぬとしたら、こういうのはイヤだな」というふうに、自分は死ぬんだぞ、という設定がうまくできないまま、仮説を述べているときもあります。
あと、「君らしい死に方だな」と「君」に対して語る1分もありますね。あとで聞くとこの「君」は、先ほどの方とは別の、亡くなったお友だちのことなんだそうですが、それを知らずに聞くと、魂となった小山さんが、まだこの世に残っている肉体の小山さんに対して「君らしいよ」と話しかけているような、幽体離脱みたいな印象を受けます。
要は撮影が継続される中で、この人は生きているのか死んでいるのか、いつの時点で誰に向かってしゃべっているのかが、どんどんわからなくなっていっているんです。ここがおもしろくて、かつ怖かったです。小山:最初は「お父さん、お母さん」みたいなお決まりのパターンから始まっています。しかしそのうち、「今日は」と語り出す、ビデオダイアリーみたいなものも出てくる。自分で見返すことはなく、字幕をつけるときにも吐き気がしたぐらい見るのはいやなので、わかっていて変化をつけているわけではないんですが。
《最期の1分》2020年‐ ©︎Wataru Koyama蔵屋:「誰がいつ誰に向かってしゃべっているのかわからない」ということでわたしが思い出したのは、シュルレアリスムの「自動記述(オートマティック・エクリチュール)」です。アンドレ・ブルトンとフィリップ・スーポーという詩人がいて、いろいろ速度を変えながら、なるべく何も考えずに文章を書きまくる、という実験をしたんです。すると、速度が上がれば上がるほど、文章が崩壊するとともに、「je(わたし)」という主語が抜けていく、というんですね。さらに、ある日、窓を見たら身投げして死にたくなった、つまり「わたし」を消去したいという気持ちに襲われたというのです。これはまずいというので実験を中止した。できすぎていてほんとうかウソかわかりませんが(笑)。
さて、幽体離脱とか、主体の存在があやふやになるといったことについて少しお話してきました。そうした、存在するのかしないのかが揺らぐキワにあるものについて、もう少し話を広げたいと思います。小山さんの作品の中には、その人には見えているのに、他の人には見えていない存在について、といった問題系が常にあるように感じます。小山:そうですね。たとえば東日本大震災のあと、マスコミが、幽霊を見た、という話をいくつか取り上げました。こうした現象は、戦争や災害のあとに世界各地で見られ、めずらしいものではありません。これを文化人類学者や病理学者は幻覚として扱います。が、ぼくは幽霊か幻覚か、ということではなく、人間が受け止めきれない死に対して、感情を発散するというか、昇華するというか、そうした人間のこころのメカニズムの部分に興味があります。それが《傷とともに幽霊は踊る》(2018)という作品になりました。
「幽霊」という言葉は、最近あまり使わないようにしているんですが、関心はずっとありました。
ちょっと脱線しますが、ぼくは中学の3年間、ずっと引きこもりをしていたんです。卒業間近になって、ヤケクソ気味に1回だけ登校したんですよ。クラスメイトはみんなふつうに話しかけてくれて、こちらもしれっと「おはよう」みたいな感じだったんですが、ぜんぜん時間を共有していないので、もちろんなじめるわけはない。社会と同期できていないというか、遅延している、時間が遅れてしまっているという感覚を強く持ちました。そこから、自分が幽霊のようだ、と感じ、さらに見えないものや人間の精神に関心が向いていったという流れです。
その意味で、作品に幽体離脱とか主語がなくなるとかいった要素が出てくるのは、必然かなと思います。蔵屋:小山さんがやっていることは、想像力の限界を試す、みたいなことなのかなとも思います。ある人には見えているけれど、わたしには見えないものを想像してみる。同様に、自分の死という、たぶん想像することがもっともむずかしいもののひとつについて想像してみる。
小山:でも結局想像できないというか、やはり他者はぜったいにわかりあえない、ということを大事にしたいと思っています。他人を被写体にすることもあるけれど、結局わかりあえないということが、自分の中ではとても大切です。
蔵屋:先ほど始まる前に、小山さんのご実家のネコが亡くなって号泣した、という話をしていたんですよね。
小山:はい、こんなに泣くのかというぐらい連日泣いてしまって。
この年末にも、別の友人が布団の中で眠りながらゆっくり死んでいたことがありました。この友人が、先ほど出てきた、ぼくが「君」と呼びかけている相手です。とても悲しかったんですけれど、それ以上にネコのことでこんなにボロボロ泣いてしまって、自分ですごくこっけいに感じました。やはりネコといえども、想像力ではなく、目の前にあるものが一番強いのか。蔵屋:先ほど小山さんがおっしゃった、幽霊という言葉を最近使わないようにしている、という話に少し戻りましょう。
端的に言うと、いま特に30代の作家さんや批評家さんのあいだで、幽霊という言葉がかなり頻繁に使われるんですよね。それがなぜなのか、わたしにも完全にはわかりませんが、気になるところではあります
わたしの知る限り、そこには二つの系統があると思います。
一つは、黒瀬陽平さんをはじめとするカオスラウンジ周辺の人たちです。2011年の東日本大震災の後、彼らも、先ほど話に出た、たくさんの人が幽霊を見た、という現象に反応しました。彼らはそれをさらにキャラクター論へと結びつけました。つまり、たとえば初音ミクのように、実体としては存在しないけれど、人のこころを強く動かす力を持つものとして、幽霊とキャラクターを捉え返したんですね。
もう一つは、近年活躍めざましい、インスタレーションを作る作家さんたちの系統です。精緻な作り込みによって空間を構築した上で、そこにいないものの気配を問題にしています。
ただ、小山さんがこれらの幽霊とちょっとちがうのは、小山さんが、幽霊を外側から表現しているのではなく、不登校によって自分が幽霊になった、という自らの経験から出発している点ではないかと思います。アウトプットのキーワードは類似していても、通って来たルートがかなり異なるのではないか、という印象です。
たとえば、小山さんの他の作品で、今の議論につながりそうな例はありますか?小山:そうですね、いなくなった存在に感情を動かされる、ということについての作品としては、去年デカメロンの個展に出した《心臓が動いている》(2021)があります。統合失調症の可能性があったお姉さんを亡くした精神科医の友人と一緒に作り上げたものです。この中で彼には、医者としてカルテを書き、かつ家族としてお姉さんに手紙を書いてもらっています。
作品を、泣かせるというか、単純に悲劇的なものとしては見せたくない、という点では、最初から彼と一致していました。映像は、お姉さんが川で亡くなって発見された場所でパフォーマンスをして終わるんですが、そこで彼が「飛び込んだ方がよかった?」みたいな冗談を言ってくれたんです。それにぼくが「いや、別に」と答えて笑って、作品は終わります。そのやりとりが見たいがためにこの作品を作ったのかな、ここが一番のリアリティだな、と思いました。アイロニカルなんですが、そこには、単純な悲しみに落ち着いて終わらせたくない、お姉さんについてずっと考え続けたいという彼の顔が、いちばん素直に現れているのではないかと感じました。
また、言葉通り幽霊という意味では、大学時代に、心霊スポットに行って撮影をして、それを自分のアトリエの壁に投影して、そこに向かってコンテやペンを持って幽霊を探す、という作品を作りました(《貧しい洞窟の幻》2015)。明滅する光やカメラのボケに反応して、トランス状態で、幻視のようなものを感じながら、すごく卑俗なかたちで洞窟壁画を描くというような試みでした。蔵屋:今さらですが、一貫した関心である生死の問題を、《心臓が動いている》に見られるように、特に精神疾患という方面から扱う作品が多いのは、どういった経緯からなのでしょう。
小山:先ほど言ったように、ぼくは中学の3年間、引きこもりでした。そもそもは、1年生の中間試験で風邪をひいて早退をしたんです。風邪は2、3日で治ったんですが、なんだかいやだな、まだ行かなくて大丈夫かな、とやっていたらほんとうに行けなくなりました。行こうとすると涙が出たりおなかが痛くなったり、身体に出る。単純になじめなかったということかも知れないですが、自分のことながら、人間がそうなってしまうっておもしろいな、と思っていました。そこからもう少し探りたいというか、人間のこころのメカニズムを考えるといろんなことが指し示されるな、という感じを持ちました。
仕事としても、精神福祉施設で働いていたことがあります。ふつうに電話で「死にたいんですけど」という相談を受けたりしていました。資格なしで働いていて、そのことにすごく迷いがあったんですが、結局、一人の人間として相手を見ること以外ない、と思ったら落ち着きました。相手もそうすればいろいろ話してくれることがわかってきました。自然と、もっと知りたい、一緒に考えることが楽しい、となっていきました。蔵屋:あと15分ほどなので、最後に少しだけ、《最期の1分》が出品されたレジデンシープログラムについて触れておきたいと思います。
古い家屋と土蔵を使った非常にいい展示でしたが、与えられた予算は、ベテラン作家に比べ、若手ということからかなり少額で、機材もほとんどが自前、会場の受付も、結局ボランティアがまったく足りず、作家さんたちもシフトに入れられるという状況だったとうかがいました。もちろん展示が実現し、いろいろなお客さんとお話できる、というメリットもあったと思いますが、最低限の対価の保証という意味では問題があると感じました。小山:ぼくらのチームは仲がよく、メンターだった荒木悠さんにもいろいろ教えていただきました。そのおかげで改善点について組織に申し入れをすることもできました。しかし、契約をする場合、最初にきちんと交渉すべきだった、と今では強く思っています。
蔵屋:たとえばすみっこというテーマを扱うときに、アーティストはつい「他者であるすみっこを表象する側の立場だ」と考えがちです。しかし小山さんの例を聞くと、アーティストもしばしば相当弱い立場に立たされていますね。ではわたしのような勤め人はどうかといえば、身体をこわして退職でもすれば、賃貸の契約すらできない状態に陥るかも知れません。
すみっこは他人事ではない。誰もがそうなりうる。そんな、セーフティーネットの底が抜けてしまったような世界をいまわたしたちは生きているんだなあ、とあらためて感じます。コロナ禍でその点がいっそうあからさまに立ち現れたのではないでしょうか。文責:蔵屋美香
展示風景「すみっこCRASH☆」2022
小山渉(こやま・わたる)
https://www.watarukoyama.com/
社会と個人の関係のあわいに立ち現れる人間の身体と精神のありようをテーマとして、主に映像作品を制作。
主な個展に「心臓が動いている The Heart is Beating」(デカメロン、2021年)、「Untouchable」(北千住BUoY、2019年)など。