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アーカイブ:「すみっこCRASH☆」トーク(小山渉 × 蔵屋美香)

トークイベントのアーカイブを公開いたしました。
参加できなかった方も、ぜひご覧ください。

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すみっこCRASH☆ アーティスト・トーク
小山渉(アーティスト)× 蔵屋美香(本展キュレーター / 横浜美術館館長)

日時:2022年3月12日(土)12:30-13:30
会場:無人島プロダクション

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蔵屋美香:本日はお越しいただきありがとうございます。トークを始めます。まずわたしから、この展覧会の成り立ちについてお話します。
だいぶ前から、わたしにはいくつか気になっている作品があり、いつか紹介のチャンスがあるといいなあと思っていました。
たとえば2011年の東日本大震災をはさんで500点以上が制作された折元立身さんのドローイング、〈ガイコツ〉(2010-2012)です。また、友政麻理子さんの《お父さんと食事(ブルキナファソ)》(2014)も8年前の制作です。このころアフリカではエボラ出血熱の感染が広がっていました。青山真也さんの映画「東京オリンピック2017都営霞ヶ丘アパート」(2021)は、展示の話とはまったく別に、冊子の編集にボランティアで携わらせてもらったというご縁でした。東京オリンピック・パラリンピック2020のために住まいを追われた人々の姿をとらえた作品です。小山さんの作品《最期の1分》(2020-)は、あとでお話しますが、とあるレジデンシープログラムの展示で偶然拝見したものでした。
無人島プロダクションさんからゲストキュレーションのお話をいただいて、これらを結んで何かテーマを立てられないかと考えていたときに、「すみっこCRASH☆」というふざけたタイトルを思いつきました。サンエックスの人気キャラクター、「すみっコぐらし」をもじったものです。
この2年のコロナ禍のような極端な状況においては、社会の中ですみっこに追いやられ、生存をおびやかされる人々が必ず生まれます。しかしまた、ふだんは不可視化されているその人たちの姿が一瞬可視化されるという状況も生じます。CRASHという英単語には、ぶつかって壊れる、という意味以外に、「鳴り響く」という意味があることもわかりました。すみっこたちが極限状況の中で、クラッシュしながら、でも声をあげる。冗談から思いついたタイトルですが、いま展覧会をやるなら、このタイトルには必然性があるのではないか、と思うようになりました。
そんな相談をしているうち、無人島さんから、そのテーマなら松田修さんの《奴隷の椅子》(2020)もぴったりではないか、とご教示をいただきました。貧困地区に生まれ育ったある女性が、自分の人生を語る作品です。
こうして出品作が集まって、展示が完成してみると、いくつかの共通するテーマがあることがわかりました。
ひとつは、血縁かどうかは別として「家族」という問題です。友政さんのテーマは、知らない人を食事の間だけお父さんとみなす、という疑似家族の問題を扱っています。松田さんの作品に登場する女性は、実は松田さんのお母さんです。折元さんは20年以上お母さんの介護をしながら、ほんの少しの自由時間に外に出て、これらの作品を描きました。そこにはガイコツの家族の姿がくり返し描かれています。小山さんの作品にも、お父さん、お母さん、お兄さんなど、後に残していく家族に何を伝えたいか、という問題や、死ぬときには誰と死ぬのか、という問題などが現れます。
もうひとつ共通するテーマは「食」です。友政さんの作品は、「食事の間だけ」という設定が重要です。一緒にものを食べるという親密な行為が、他人同士である「父娘」の距離を縮める決定的な要素となるからです。松田さんの作品にも、一番苦しい時期には1枚のハムを切って家族で分けた、という話が出てきます。折元さんも、ヘルパーさんがお母さんの食事の準備をしている間に、立ち飲み屋で飲食をしながら描かれました。画材として醤油も使われています。「霞ヶ丘アパート」には、住民に食を届ける食料品店主が住民に対して大きな影響力を持つさまが描かれています。また、展示台には暗☆闇香による模写というかたちで、韓国のアーティスト、イ・カンソの《ギャラリーの居酒屋》(1973年)に対するオマージュを出品しました。韓国の戒厳令下、無許可の集まりが禁じられる中で、ギャラリーに居酒屋の椅子とテーブルを持ち込み、飲食の場を提供した、という伝説のパフォーマンスに捧げる作品です。特に、コロナ禍において「濃厚接触」とみなされた食の持つ意味合いは、大きく変わったと感じています。
こうして、家族、食、そしてもうひとつ、「霞ヶ丘アパート」に代表される住居など、いずれも生存の最低限の保障にかかわる問題が展示を通じて浮かび上がってきました。小山さんの作品は、残念ながら食だけはぜんぜん関係ないのですが(笑)。
長くなりましたが、以上が展覧会全体の枠組みです。
では、小山さんの方から、今回の出品作について、なぜこのような作品を作るに至ったのか、どんなルールで撮影が行われるのか、といった点を教えていただけますか。

小山渉:2年にわたり、ある地方のレジデンシープログラムに参加していました。1年目に、現地に2週間滞在してテーマを決めるという作業をしたのですが、そのとき不老不死ということを考えていて、地元に祠がある「八百比丘尼(はっぴゃくびくに、やおびくに)」を扱おうと思いました。八百比丘尼は、手塚治虫のマンガ『火の鳥』にも出てくる、人魚の肉などを食べて不老不死になった存在です。パンデミックのさなかで、死生観ということについてずっと考えていたんです。
そのうち、手塚が、自分が死ぬ時に『火の鳥』の最後の一コマを描いて作品が完成する、と言っていて、でも描けずに亡くなったことを知りました。
また、ちょうどレジデンシーの1年目が終わるときに、友だちが亡くなりました。彼は絵画を制作していたのですが、その葬儀で事務机の上にぞんざいに作品が置かれているのを見て、絶対いやだな、とか、彼だったらどうしたかったかな、とか、自分ならどうしたいかな、と自問しているうちに、じゃあぼくの葬儀について考えよう、と思いつきました。ほんとうに人はいつ死ぬかわからないな、と感じていました。
マンガではなく映像を作る自分は、1コマではなく1分だな、と思い、感情が揺れ動いたときに、不定期で、明日はもういないという中で、最期の言葉を1分で記録する、というこの作品になりました。いまは30分ぶんぐらいありますが、ライフワークとしてこの先もゆるゆると続けていく予定です。
感情が動いたときといっても、言葉を残すので、けっこう理性的であることが多いです。ほんとうに感情がたかぶったときには、ある程度咀嚼して、ちょっと時間を置いて撮ったりしています。
悲観的なばかりではなく、怒っているとか、他人が楽しんでいるのを見てすごくうれしくなってしまったとか、ここにはさまざまな感情が記録されています。それが最終的に自分の葬儀で流れたらおもしろいな、というか、自分が死ぬのがちょっと楽しみになるようなところがあります、ふふふふ。

蔵屋:なぜそこで笑うんでしょうね(笑)

小山:いや、そういう人なんです(笑)

蔵屋:わたしがこの作品を拝見したのは、先ほど言ったように、レジデンシープログラムの展示のときでした。以前にもいくつか作品を拝見していたんですが、精神疾患の方たちをテーマにしたコラージュ作品など、なかなか重く激しいテーマであるにもかかわらず、非常にていねいに、美しく仕上げられていることに、正直にいうとちょっと引っ掛かりを感じていました。しかし《最期の1分》には生々しいものがあふれ出ていて、この人はこんな作品も作るんだなあ、という驚きがありました。
出品をお願いしてから何度も作品を見返したんですが、もうひとつおもしろかったのは、発言の立ち位置にいくつかのパターンがあるということでした。
たとえば、「これを見ているみんな、ぼくは死んじゃったけど」と、今の自分が未来の人たちに向けて語っているパターンがありますよね。
また、「これから死ぬとしたら、こういうのはイヤだな」というふうに、自分は死ぬんだぞ、という設定がうまくできないまま、仮説を述べているときもあります。
あと、「君らしい死に方だな」と「君」に対して語る1分もありますね。あとで聞くとこの「君」は、先ほどの方とは別の、亡くなったお友だちのことなんだそうですが、それを知らずに聞くと、魂となった小山さんが、まだこの世に残っている肉体の小山さんに対して「君らしいよ」と話しかけているような、幽体離脱みたいな印象を受けます。
要は撮影が継続される中で、この人は生きているのか死んでいるのか、いつの時点で誰に向かってしゃべっているのかが、どんどんわからなくなっていっているんです。ここがおもしろくて、かつ怖かったです。

小山:最初は「お父さん、お母さん」みたいなお決まりのパターンから始まっています。しかしそのうち、「今日は」と語り出す、ビデオダイアリーみたいなものも出てくる。自分で見返すことはなく、字幕をつけるときにも吐き気がしたぐらい見るのはいやなので、わかっていて変化をつけているわけではないんですが。


《最期の1分》2020年‐ ©︎Wataru Koyama

蔵屋:「誰がいつ誰に向かってしゃべっているのかわからない」ということでわたしが思い出したのは、シュルレアリスムの「自動記述(オートマティック・エクリチュール)」です。アンドレ・ブルトンとフィリップ・スーポーという詩人がいて、いろいろ速度を変えながら、なるべく何も考えずに文章を書きまくる、という実験をしたんです。すると、速度が上がれば上がるほど、文章が崩壊するとともに、「je(わたし)」という主語が抜けていく、というんですね。さらに、ある日、窓を見たら身投げして死にたくなった、つまり「わたし」を消去したいという気持ちに襲われたというのです。これはまずいというので実験を中止した。できすぎていてほんとうかウソかわかりませんが(笑)。
さて、幽体離脱とか、主体の存在があやふやになるといったことについて少しお話してきました。そうした、存在するのかしないのかが揺らぐキワにあるものについて、もう少し話を広げたいと思います。小山さんの作品の中には、その人には見えているのに、他の人には見えていない存在について、といった問題系が常にあるように感じます。

小山:そうですね。たとえば東日本大震災のあと、マスコミが、幽霊を見た、という話をいくつか取り上げました。こうした現象は、戦争や災害のあとに世界各地で見られ、めずらしいものではありません。これを文化人類学者や病理学者は幻覚として扱います。が、ぼくは幽霊か幻覚か、ということではなく、人間が受け止めきれない死に対して、感情を発散するというか、昇華するというか、そうした人間のこころのメカニズムの部分に興味があります。それが《傷とともに幽霊は踊る》(2018)という作品になりました。
「幽霊」という言葉は、最近あまり使わないようにしているんですが、関心はずっとありました。
ちょっと脱線しますが、ぼくは中学の3年間、ずっと引きこもりをしていたんです。卒業間近になって、ヤケクソ気味に1回だけ登校したんですよ。クラスメイトはみんなふつうに話しかけてくれて、こちらもしれっと「おはよう」みたいな感じだったんですが、ぜんぜん時間を共有していないので、もちろんなじめるわけはない。社会と同期できていないというか、遅延している、時間が遅れてしまっているという感覚を強く持ちました。そこから、自分が幽霊のようだ、と感じ、さらに見えないものや人間の精神に関心が向いていったという流れです。
その意味で、作品に幽体離脱とか主語がなくなるとかいった要素が出てくるのは、必然かなと思います。

蔵屋:小山さんがやっていることは、想像力の限界を試す、みたいなことなのかなとも思います。ある人には見えているけれど、わたしには見えないものを想像してみる。同様に、自分の死という、たぶん想像することがもっともむずかしいもののひとつについて想像してみる。

小山:でも結局想像できないというか、やはり他者はぜったいにわかりあえない、ということを大事にしたいと思っています。他人を被写体にすることもあるけれど、結局わかりあえないということが、自分の中ではとても大切です。

蔵屋:先ほど始まる前に、小山さんのご実家のネコが亡くなって号泣した、という話をしていたんですよね。

小山:はい、こんなに泣くのかというぐらい連日泣いてしまって。
この年末にも、別の友人が布団の中で眠りながらゆっくり死んでいたことがありました。この友人が、先ほど出てきた、ぼくが「君」と呼びかけている相手です。とても悲しかったんですけれど、それ以上にネコのことでこんなにボロボロ泣いてしまって、自分ですごくこっけいに感じました。やはりネコといえども、想像力ではなく、目の前にあるものが一番強いのか。

蔵屋:先ほど小山さんがおっしゃった、幽霊という言葉を最近使わないようにしている、という話に少し戻りましょう。
端的に言うと、いま特に30代の作家さんや批評家さんのあいだで、幽霊という言葉がかなり頻繁に使われるんですよね。それがなぜなのか、わたしにも完全にはわかりませんが、気になるところではあります
わたしの知る限り、そこには二つの系統があると思います。
一つは、黒瀬陽平さんをはじめとするカオスラウンジ周辺の人たちです。2011年の東日本大震災の後、彼らも、先ほど話に出た、たくさんの人が幽霊を見た、という現象に反応しました。彼らはそれをさらにキャラクター論へと結びつけました。つまり、たとえば初音ミクのように、実体としては存在しないけれど、人のこころを強く動かす力を持つものとして、幽霊とキャラクターを捉え返したんですね。
もう一つは、近年活躍めざましい、インスタレーションを作る作家さんたちの系統です。精緻な作り込みによって空間を構築した上で、そこにいないものの気配を問題にしています。
ただ、小山さんがこれらの幽霊とちょっとちがうのは、小山さんが、幽霊を外側から表現しているのではなく、不登校によって自分が幽霊になった、という自らの経験から出発している点ではないかと思います。アウトプットのキーワードは類似していても、通って来たルートがかなり異なるのではないか、という印象です。
たとえば、小山さんの他の作品で、今の議論につながりそうな例はありますか?

小山:そうですね、いなくなった存在に感情を動かされる、ということについての作品としては、去年デカメロンの個展に出した《心臓が動いている》(2021)があります。統合失調症の可能性があったお姉さんを亡くした精神科医の友人と一緒に作り上げたものです。この中で彼には、医者としてカルテを書き、かつ家族としてお姉さんに手紙を書いてもらっています。
作品を、泣かせるというか、単純に悲劇的なものとしては見せたくない、という点では、最初から彼と一致していました。映像は、お姉さんが川で亡くなって発見された場所でパフォーマンスをして終わるんですが、そこで彼が「飛び込んだ方がよかった?」みたいな冗談を言ってくれたんです。それにぼくが「いや、別に」と答えて笑って、作品は終わります。そのやりとりが見たいがためにこの作品を作ったのかな、ここが一番のリアリティだな、と思いました。アイロニカルなんですが、そこには、単純な悲しみに落ち着いて終わらせたくない、お姉さんについてずっと考え続けたいという彼の顔が、いちばん素直に現れているのではないかと感じました。
また、言葉通り幽霊という意味では、大学時代に、心霊スポットに行って撮影をして、それを自分のアトリエの壁に投影して、そこに向かってコンテやペンを持って幽霊を探す、という作品を作りました(《貧しい洞窟の幻》2015)。明滅する光やカメラのボケに反応して、トランス状態で、幻視のようなものを感じながら、すごく卑俗なかたちで洞窟壁画を描くというような試みでした。

蔵屋:今さらですが、一貫した関心である生死の問題を、《心臓が動いている》に見られるように、特に精神疾患という方面から扱う作品が多いのは、どういった経緯からなのでしょう。

小山:先ほど言ったように、ぼくは中学の3年間、引きこもりでした。そもそもは、1年生の中間試験で風邪をひいて早退をしたんです。風邪は2、3日で治ったんですが、なんだかいやだな、まだ行かなくて大丈夫かな、とやっていたらほんとうに行けなくなりました。行こうとすると涙が出たりおなかが痛くなったり、身体に出る。単純になじめなかったということかも知れないですが、自分のことながら、人間がそうなってしまうっておもしろいな、と思っていました。そこからもう少し探りたいというか、人間のこころのメカニズムを考えるといろんなことが指し示されるな、という感じを持ちました。
仕事としても、精神福祉施設で働いていたことがあります。ふつうに電話で「死にたいんですけど」という相談を受けたりしていました。資格なしで働いていて、そのことにすごく迷いがあったんですが、結局、一人の人間として相手を見ること以外ない、と思ったら落ち着きました。相手もそうすればいろいろ話してくれることがわかってきました。自然と、もっと知りたい、一緒に考えることが楽しい、となっていきました。

蔵屋:あと15分ほどなので、最後に少しだけ、《最期の1分》が出品されたレジデンシープログラムについて触れておきたいと思います。
古い家屋と土蔵を使った非常にいい展示でしたが、与えられた予算は、ベテラン作家に比べ、若手ということからかなり少額で、機材もほとんどが自前、会場の受付も、結局ボランティアがまったく足りず、作家さんたちもシフトに入れられるという状況だったとうかがいました。もちろん展示が実現し、いろいろなお客さんとお話できる、というメリットもあったと思いますが、最低限の対価の保証という意味では問題があると感じました。

小山:ぼくらのチームは仲がよく、メンターだった荒木悠さんにもいろいろ教えていただきました。そのおかげで改善点について組織に申し入れをすることもできました。しかし、契約をする場合、最初にきちんと交渉すべきだった、と今では強く思っています。

蔵屋:たとえばすみっこというテーマを扱うときに、アーティストはつい「他者であるすみっこを表象する側の立場だ」と考えがちです。しかし小山さんの例を聞くと、アーティストもしばしば相当弱い立場に立たされていますね。ではわたしのような勤め人はどうかといえば、身体をこわして退職でもすれば、賃貸の契約すらできない状態に陥るかも知れません。
すみっこは他人事ではない。誰もがそうなりうる。そんな、セーフティーネットの底が抜けてしまったような世界をいまわたしたちは生きているんだなあ、とあらためて感じます。コロナ禍でその点がいっそうあからさまに立ち現れたのではないでしょうか。

文責:蔵屋美香


展示風景「すみっこCRASH☆」2022


 小山渉(こやま・わたる)
 https://www.watarukoyama.com/
 社会と個人の関係のあわいに立ち現れる人間の身体と精神のありようをテーマとして、主に映像作品を制作。
 主な個展に「心臓が動いている The Heart is Beating」(デカメロン、2021年)、「Untouchable」(北千住BUoY、2019年)など。