小泉明郎

空気

2016 4.29 - 2016 5.15

無人島プロダクションでは小泉明郎展「空気」を開催いたします。

本展タイトルの「空気」とは、小泉が東京都現代美術館で現在開催中である「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展のために制作したものの、展示することのかなわなかった作品のタイトルです。美術館と小泉との協議により、自主規制の痕跡を残すという意味で、展覧会場にはキャプションだけが展示されています。 展覧会オープン後に小泉から作品の画像を見せてもらい、この「空気」不在で展覧会がオープンしたことを聞き、今回、無人島プロダクションで「空気」を初お披露目することにいたしました。

出品作家の一人であり、共同で展示ディレクターも務めている小泉は、「キセイノセイキ」展について、「主体性が見えにくい自主規制の構造自体を扱った展覧会企画」(小泉明郎「『空気』展DMのためのテキスト」より抜粋)と規定しています。また、「空気」は、小泉は「天皇の肖像を制作」(同)した作品であるとし、美術館が作成した「キセイノセイキ」展会場用リーフレットには「一人の人間とも、タブーとも表象できないジレンマから生まれている」作品だと紹介されています。しかし、その作品の展示について「企画プロセスの中で、ある主体的な倫理観に基づく判断」(「DM」より抜粋)を聞いた小泉は、「その判断を尊重し、作家の自己検閲という形で作品を取り下げ」(同)るという結論に至ります。
そして、「美術館という場所を信じて奮闘している企画者一同を失望させる結果」(同)となったこと、「美術館という場を信じてもっと戦わなければならなかったのか」(同)ということに対する葛藤が続いています。

私たちを取り巻く社会では、さまざまな場で自主規制や検閲が行われています。そのほとんどは水面下で行われ、私たちがニュースとして知ることができるのは、さらに別種の規制を通過して水上に姿を現した上澄みの情報にすぎません。
表現の場においても同様で、たとえば発表後のクレームにより歪曲されてしまった表現はニュースになりますが、それ以前に水面下で行われていた交渉や協議の部分まで露わになることはほとんどありません。
けれども私たちは、そうした規制や検閲に対し、「表に出たことだけわかればいい」という傍観者でいつづけるわけにはいかない時代を生きているのです。

「キセイノセイキ」展についてはインターネット上にも「がらんとした空間」、「空虚」といった言葉を用いた硬軟さまざまなレビューが掲載され、会場に足を運んだ人も未見の人も、そこに美術館という制度に関わる現在進行中の諸問題が存在していることを知っていることでしょう。実際、展覧会は、オープンしたあとも美術館と作家による協議や交渉が続き、展示のマイナーチェンジが行われています。ただ、私たちはこの批判や批評の論点を、「美術館と作家による内側の問題」で終わらせるべきではないと考えています。
数年前に「KY」という「空気を読めない人」の頭文字による略語が流行したことからもわかるように、「空気を読め」という圧力が当然であるかのような風潮があります。ですが、半径数メートル内の人間関係で「何かに同調する/迎合する」、「自分の意見を隠す」といった「空気を読む」という態度は、はたして美徳なのでしょうか。空気を読めばこそ、今の世界で起きている問題や危機意識を、時代の当事者として感じとり、発言することが必要なのではないのでしょうか。

監視と介入と炎上の時代に、私たちは表現とどう向き合うか。
「空気」は、なぜ展示することがかなわなかったのか。
小泉と私たちは、個展というグラウンドで鑑賞者のみなさんとともに考察したいと思います。美術館とは制度が異なるこの場所で、異なった価値観や意見を持った方々と出会い、そしてさまざまな対話が生まれることを期待しています。

協力:ARTISTS’ GUILD

*小泉明郎展「空気」会場にアンケートコーナーを設置いたしました。
会期中、さまざまな世代や立場の方々からの貴重な意見・感想をいただいたことがとても大きく、これは現在、そして未来への重要な議題になるだろう、と考えました。 会場では、自宅でゆっくり考えて答えたいというリクエストもありました。
また、すでにご来場いただいた方にもネットでご意見・ご感想をいただけるようにこちらにもアンケートフォームを作りました(無記名制です)。 ご協力いただけましたら幸いです。
(終了いたしました。ご協力いただいた皆さま、誠にありがとうございました。)