展示風景:「あいちトリエンナーレ2019:情の時代」(愛知) 撮影:平林岳志
展示風景:「あいちトリエンナーレ2019:情の時代」(愛知) 撮影:平林岳志
展示風景:「あいちトリエンナーレ2019:情の時代」(愛知) 撮影:平林岳志
展示風景:「あいちトリエンナーレ2019:情の時代」(愛知) 撮影:平林岳志
展示風景:「あいちトリエンナーレ2019:情の時代」(愛知) 撮影:平林岳志
展示風景:「あいちトリエンナーレ2019:情の時代」(愛知) 撮影:平林岳志
2679 (2019)
video
4 min. 15 sec.

Performers: Maya Muga Moeran, Luke Takahashi, and Tsuyoshi Tomoyama
Filming by Taro Aoishi, Yukari Hirano

ベネディクト・アンダーソン曰く、国歌は体験的に国民と国の関係を強く結びつけた。そして国歌は演奏される背景によって、その時代を風刺する ̶―1940年に皇居前広場で開かれた「紀元二六〇〇年式典」で、五万人弱の参列者が斉唱した「君が代」のように。

この「拘束の演奏」では、オーケストラが各パート数に比例して音を積み上げるのとは対称的に、演奏者同士はお互いに演奏の障壁となるので、その演奏者の数が多いほど妨害の力は強まり、その人数に反比例して音はかき消されていく。現代において人が集合し共同体として存在することと、そのメンバーである私たちとの間にあるしがらみ̶大文字のカテゴライズになればなるほど、そのなんらかの構成員となる私たちが一つの共通の方向を向くことは、もはや難しい。SNSを介して私たちは常に誰かと繋がっている一方で、想像力なきレッテル貼り、先入観先行型の攻撃もそこで表面化する。複数のコミュニティを横断する私たちにとって、繋がりは同時に拘束でもあり、誰かの日常を覗くと同時に、常に誰かに監視されていることも意識しなければならない。そうして促される自己規制によって、小さい声は「より」かき消されていってしまうのではないだろうか。多くのイメージ・情報に取り囲まれたこの環境は、私たちを「より」傍観者にもしてしまっているのではないだろうか。

1940年は、札幌で冬のオリンピック、東京で夏のオリンピックと万博が予定され(全て戦争を理由に中止)当時の国威発揚を象徴する年であった。前述の式典の記録映像は「日本ニュース第23号」とインターネットで検索するとNHKのアーカイブを見ることができる。その当時、限定的であった「日本人」というイメージの物差しは、奇しくも東京オリンピックの前年にあたるいま、どれだけ多様的なかたちに変容したのか/していないのか?(2019年 加藤翼)